田舎坊主の読み聞かせ法話

田舎坊主の求不得苦<お布施は生活の糧>


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私は男兄弟三人の末っ子として寺に生まれた。

物ごころついたころから住職である父親が持ち帰ったお布施を開けるのが楽しみだった。とくにお盆の棚経の時は頭陀袋いっぱいに入ったお布施の包みを嬉々として開けていた。今考えると、なんと硬貨が多かったことか。

最高額は500円札(当時はまだ硬貨ではなかった)でそのほかは50円玉や10円玉がほとんどを占めていた。

父は役場勤めとの二足のわらじだったが、なるほどこれでは寺の収入だけで三人の男の子を育てることはできなかっただろう。

ちなみに今でもお盆にこの田舎寺で行われる施餓鬼供養のお布施には10円玉五個をセロハンテープで一列に貼り付けて半紙に包まれている場合も少なくない。ほかの硬貨の場合でも同様で、中身が偏らず包みからこぼれないようにしてくれているのだが、テープをはがすのが大変なのだ。

そろそろ硬貨から紙幣にグレードアップしてもらいたいと思っていた。

 

それにしても当時、多量の硬貨のお布施は、田舎の山坂道を歩きながら檀家まわりする父にはさぞかし重かったに違いない。

子どもの私は当時はそんなことも考えず、駄賃として10円玉や50円玉のお小遣いをもらえるのが嬉しかった。

母は「このお布施のおかげで生活できるんやで」と私たちを諭した。


お寺はお布施で生活し、檀家さんはお墓参りや法事の代価として参ってくれた坊さんに支払うものだと子どものころは考えていた。

というより坊主を生業とするようになっても、しばらくのあいだは正直そう考えていた。そしてお布施はいただくものであり、お布施する立場には一生ならないと考えていた。

かつて何度かインドに旅行したとき、現地の子どもたちに「バクシーシ!、バクシーシ!(喜捨せよ、喜捨せよ!)」とまとわりつかれる経験をして以来、「有る者が無い者に喜捨する」ということは「自分のもの」という執着を離れ喜んで捨てていくという物の再分配であり、相手に得る喜びを分け与え、得た者は捨てた人の心の温かさに触れるのだと気づくまでにずいぶん年月を要したように思う。

人は自分の好みのものであっても、それがたくさんあれば、言い換えれば多く「存在(そんざい)」すれば、往々にして粗末な扱いをしてしまう。

その行為こそ「存在(ぞんざい)」であり、もののありがたさも、得た喜びも、感謝も、おかげも忘れてしまっている。

そんな新鮮なありがたさや感謝を得るためにも「捨てる」ことを実践し、「無」「空」になることを教えてくれているのが般若心経ではないだろうか。

合掌

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田舎坊主の読み聞かせ法話By 田舎坊主 森田良恒