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特殊な事件だ。現場の状況報告時からただならぬ緊張感と絶望感が朝の県警を覆っていた。
片倉は深夜の午前1時半に現場に赴いた。深夜の熨子山には闇しか無かった。車を停めて現場である小屋へ懐中電灯の明かりを頼りに向かった。しばらくすると闇夜にくっきりと映し出される寂れた山小屋が目に入ってきた。鑑識が設置した投光器によってそこだけが昼間のように明るかった。
片倉が現場に入って先ず目にしたのは見慣れたセダン型の車輌だった。この車のダッシュボードから一色の名前が書かれた車検証が押収されていた。
現場には被害者のものと思われる足跡とそうでない足跡が残されていた。被害者の足跡はこの小屋の中で消えている。しかし一方の足跡は違っていた。車から降りて小屋の中に入り、二体の遺体を踏みつけた形跡があった。足跡は小屋から20メートル程先に行った県道の傍で消えていた。この途中で消えた足跡は鑑識で分析してみないと誰のものかは分からないが、普通の考え方であれば一色のものであると考えた方が良い。
片倉は小屋の周囲をひととおり自分の目で見た後、その中に入った。長年捜査一課で様々な遺体を見てきた片倉でさえも、その惨状には目を覆うものがあった。
劣化した木造の壁に飛び散った大量の血しぶき。床には血溜まりが出来ている。シートが被せられた遺体を確認すると、その二体ともの顔が無くなっていた。
顔面を鈍器のようなもので激しく殴打されている。もう原形をとどめていない。顔面と頭蓋骨は粉砕され、周囲には脳や肉片が飛び散っていた。
あまりもの状況にそこから目を逸らすと、その遺体の傍らには一枚のハンカチを確認した。これにも片倉は見覚えがあった。
―部長のものだ。
片倉は二日前に本部のトイレで一色と同じになった。一色は用を足した後で、洗面所でハンカチを口にくわえ手を洗っていた。普段気にも止めないのだが、片倉はこのときだけ何故かそのハンカチに目が止まった。
片倉は一ヶ月前に訪れた自分の誕生日に高校生の娘からプレゼントをもらっていた。海外ブランドの財布だった。娘がアルバイトで稼いだ金で購入したようだった。元来身なりの事には無頓着な片倉だったが、愛する娘が汗水流して働いてプレゼントしてくれたものは身に付けないわけにはいかない。貰った翌日からそれを持って仕事に行った。
いつもの休憩場所である喫煙所の自動販売機でコーヒーを買おうとした時、傍にいた部下に財布について話しかけられた。
「課長、それブランドもんじゃないっすか。」
「ああ、そうらしいな。」
「どうしたんですか、それ。」
「娘から誕生日プレゼントで貰った。」
「それ、かなりいいやつですよ。良い娘さんお持ちですね。」
「そうなんか?」
「ええ、僕なんかも欲しいですけど、なかなか手が出ませんよ。」
このようなやり取りがあったため、それ以来そのブランドの存在に敏感になっていた。一色がくわえていたハンカチにも同じブランドのロゴマークが入っていた。そこで一色とそのブランドのことで二三言葉を交わした。
現場にはこの他にも一色にまつわる遺留品があった。
片倉はそれらのあまりもの遺留品の多さに戸惑いながらも、そのひとつひとつが『この犯行を行ったのは一色である』と自分に語りかけてくるのを受け止めていた。
そして今から10分前の8時半。鑑識からの新しい報告が入った。その報告は絶望的なものだった。
鑑識からの資料に目を通す朝倉本部長を前に片倉は直立不動だった。
朝倉は前頭部が禿げ上がった五十五歳の痩身の男である。目は細く少し垂れていて温和な表情をしているが、その実、眼光は鋭い。資料に目を通す眼鏡の奥に見える彼の目は刑事の目をしていた。
「信じられん。」
朝倉の意見は片倉と同じだった。
「私も信じられません。凶器からの指紋検出は決定的です。」
朝倉は資料を閉じ、しばし無言になった。
「…マル秘の氏名を公表しろ。」
朝倉の目が鋭く光った。
「しかし、察庁からは当面の間はマル秘を特定せずに捜査をしろとの指示ですが。」
この事件に一色が何らかの形で関わっているということは、現場の状況を見て即座に分かった。合計4名の被害者をだす重大な事件であるため、察庁には事件発生当時より逐一連絡を入れていた。察庁からの指示は被疑者を特定せずにあらゆる方面からの捜査を迅速に行えというものだった。
仮に一色が犯人であった場合、現役のキャリア警察官僚が起こした事件となり、それが世間に及ぼす影響は多大なもので、警察組織の信用問題に発展するのは必至である。そのため隠密に捜査をせよとの意図である。
察庁はこういったことは言葉では言わない。被疑者の発表を意図的に伸ばす指示をしたと明らかにされれば、それこそ二重の痛手となる。現場が察庁の意を汲めということだ。
「動かぬ証拠が出ているんだ、やむを得んだろう。」
「ですが本部長。察庁の了解を取り付けねばなりません。」
「それでは時間がかかる。いいからやれ。」
「お言葉ですが、そのような単独行動をすると本部長もただでは済みません。調整はした方が良いかと思います。」
朝倉は立ち上がって窓から外を眺めながら呟いた。
「片倉…お前はどこを向いて仕事をしている。」
「は?」
身内のボロを出さないように、秘密裏に捜査をしていこうという察庁の姿勢を無意識のうちに汲み取り、行動していた自分に気づいた瞬間だった。
「マル秘は現役の警察幹部。拳銃を携行している可能性があるのはお前もよく分かっているだろう。」
片倉は無意識のうちに自分のズボンの継ぎ目を握りしめていた。
「我々警察は市民の生命と財産を守る義務がある。マル秘が危険な凶器を未だ所持している可能性が捨てきれないならば、その公表は当然と考える。」
こちらに振り向いて片倉の目を見て語られる朝倉の意見は筋が通っている。
「確かに我々は警察組織の一部だ。勝手な行動は慎むべきである。だがそれ以上に我々は公僕であるという自覚を失ってはいけない。」
片倉はこれ以上朝倉に何も言えなかった。あまりの正論を聞かされたことで体が軽く震えていた。
「皮肉だが、これはマル秘がよく言っていた言葉でもある。」
朝倉が付け加えたこの言葉に片倉は少し引っかかった。
「では察庁にどのように報告すればよろしいでしょうか。今日の10時頃には松永リジ感がこちらに応援に来ますが。」
「調整は別所部長と俺に任せろ。おまえはそんな事に気を遣うな。先ずは被疑者の確保だ。検問の体勢を強化しろ。」
「了解いたしました。」
片倉は一礼し本部長室を後にした。
部屋にひとりになった朝倉は自分の席に座り大きく息を吐いた。
そして胸元から携帯電話を取り出し、電話帳から一人の男の電話番号を呼び出してそこにかけた。
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