田舎坊主の読み聞かせ法話

「これは布施だ ー布施は忘れよー」田舎坊主のぶつぶつ説法


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私は生体肝移植手術と聞くと、今も胸が熱くなる。

というのもこのYちゃんの手術が行われた4年前の1985年10月に、私の次女が同じ胆道閉鎖症で五歳の命を終えているのだ。

私はこの子の闘病のなかで、多くの医療の矛盾や社会の偏見、反対に多くの周囲の人たちの温かさも経験した。

そして難病で苦しむ患者や家族がたくさんいることも知った。

この難病で苦しむ多くの人たちが、悩みを語りあい、孤独になることのないよう、いろんな患者家族によびかけ「和歌山県難病団体連絡協議会」を結成したのも、娘が逝ってから4年後、Yちゃんの手術が行われた1989年のことである。

ところで、宗教界においては「脳死」や「臓器移植」にはそれぞれ違った見解を示しているところであるが、総体的にこれらを容認している宗教団体は少ないといえる。

しかし、実際に患者や患者家族の立場になったとき、親が子どもの命を救うために、「身体の一部を使ってほしい」と医師に願う。

また息子は親に「俺の肝臓を使って、長生きしてくれ」と説得する。

ともに医療を信頼した上での、いわば「己の持ち物を捧げる」という尊き「財施」という布施行ではないかと思う。

仏教の勉強をしている頃、布施とは「何を」「誰に」「どれだけ」を忘れ、清浄なるものでなければならないのが基本だと教わったものだ。

この基本を満たせば、当然相手から何らの見返りを求めないですむのだ。

私は、これは自分のものを手放していくとき、そのものに対する執着を離れるための方法論だと思っている。

生体肝移植手術という行為のなかには、少なくともこのような「何を」「どれだけ」という打算は存在しない。

ただし、「誰に」は家族という(もちろん家族だからこそ適合率が高いという必要条件もあるのだが)、とらわれるべき愛しい存在だからこそ「財施」できるのかもしれない。

その意味では布施行の基本をすべて満たしていることにはならないが、こういうところから人間の行為は高められていくものなのかもしれない。

あえて田舎坊主として付け加えるならば、人生の歩み方がすばらしく思えたり、その人の行為が尊く思えるのは、家族に持てるような気持ちを、他人にも持っているかどうかが計られての上だと思う。

まさに「同慈同悲」の心を持っているのか、自問自答しているのである。

合掌


4月からのシーズン2の読み聞かせ法話の本は

私の初版本で、2002年に出版した「田舎坊主のぶつぶつ説法」です。

後に「田舎坊主シリーズ」とつながる第1弾です。

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田舎坊主の読み聞かせ法話By 田舎坊主 森田良恒