「私たちはひとりではない」イザヤ 41:8-16小倉泉師
礼拝メッセージ20200419.mp3
「人の主な目的は何か。」答え:「人の主な目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと。」ウエストミンスター小教理問答の第1問とその答えです。この質問は人全体を対象としていますから、人であるなら神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶのが当然ということになります。そうであるなら、主なる神を信じるクリスチャンは、なおのこと神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶべき者です。そして、「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」を具体的に形にしているのが、ともに集まって神を礼拝するということだろうと思います。それが唯一のこととは思いませんが、中心にあるものの一つであることは間違いないでしょう。ペンテコステの日にエルサレムで誕生した最初の教会はともに集まって、神を礼拝し、交わりも持っていたことが知られています。使徒の働き2:42~47にその姿が記されています。「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」彼らは一つになってみことばを学び、賛美と祈りを献げ、聖餐式を行い、つまり神を礼拝していたのです。また、交わりを持ち、持ち物や食事を分かち合い、助け合い支え合って生活していたのです。またヘブル書の著者も言います。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル10:25)私たちがともに集まる最大の理由は神を礼拝するためです。クリスチャンのアイデンティティーの中心的な部分にともに集まって神を礼拝することがあるのは否定できないことです。ですから、新型コロナウィルス感染症の感染拡大によって、教会にみんなで集まって礼拝することができなくなっている今の状況は、私たちにとって本当に辛い試練であると言って良いでしょう。ともに集まって礼拝を献げるという、毎週当たり前と思っていたことができないからです。しかも、それがいつまで続くのか、まったく先が見通せないのです。「コロナ、うざい。失せろ」と大声で叫びたいくらいです。この問題が起こった初めの頃は、暖かくなれば落ち着くのでは、と皆が楽観的に考えていた節があります。しかし、感染が広まるにつれて、収束予想はどんどん後ろへ延ばされて行きました。夏まで、から、秋には、になり、今は、1年は覚悟しなければならないだろうとも言われています。私たちの世代が今までに経験したことのない事態です。どう受け止め、どう対応したらよいのか、戸惑うことが多くて大変です。最近、自分自身も予想以上に精神的なストレスを受けていることに気づき始めました。皆さんの中にも同じような方がいるのではないかと思います。そんな中で礼拝を献げられるということも神の恵みなのだということを改めて感じさせられたように思います。何の不自由もなく、当たり前のように日曜日の朝、教会に来て礼拝を献げる。その繰り返しの中で、いつでも自由に礼拝を献げられるものだと、私たちは思い込んでいたように思います。もっと言うなら、礼拝は私がするもの、神のために私がしてあげるもの。そこまで意識してはいないでしょうが、礼拝の主導権が本当は神にあることを忘れ、自分の側にあるように思いこんでいたということはないでしょうか。そもそも私たちが礼拝する神は、人の手によって作られたいのちのない偶像の神々とは異なり、天地万物を創造された、全知全能の永遠の神であり、今も私たちの現実・生活の中に生きて働いておられる神です。唯一の神であり、何物にも比べられない絶対者であり、最も高い所におられる至高の存在です。それに対して私たちはどのようはものでしょうか。確かに神のかたちとして神の似姿に造られたものです。それは神の代理者として神の造られた世界を管理し、より良い世界に維持発展させるためでした。「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された(創世記1:26~27)。」その手始めに人(アダム)は被造物に名前を付けました。その被造物の本質を判断し、それにふさわしい名前を付けたのです。さらにカインとアベルは農業と牧畜を手がけました。トバル・カインは金属加工を、ノアは巨大な箱舟を作り上げました。ノアの洪水の後、人はバベルの塔をも造り始めました。他にも様々なものを創り出して行きました。これらの能力は、万物の創造主である神のかたちとして造られたことの結果であって、神の創造の力の一部を引き継いでいるからです。時代が下るにしたがって人は科学や技術を発展させ、驚くべきものを次から次と創り出して来ました。かつては夢物語と思われていたことでも、現実となっていることがたくさんあります。鳥のように空を飛んでみたいという昔の人のあこがれは、今や宇宙にまで飛んで行ける現実になっています。昔の人なら知りようが無かった地球の裏側の出来事でも、今ならインターネットで瞬時に知ることができます。これらはすべて人が創り出したものです。このような事実を見ると、人とは偉大なものだと感じるかもしれません。神と少ししか変わらない存在、神と並ぶこともできそうな存在と思い込んでしまうかもしれません。しかし、それは違うのです。神と人との差、違いは、決して小さいものではありません。大きいのです。神と人とは決定的に違うのです。神は創造者であり、人はその神によって造られたと被造物なのです。被造物はどんなに優秀なものであっても、創造者を越えることはできません。創造者であるということは被造物を完全に理解しているということです。知らないものを作ることはできないからです。神が人を創ったということは、神は人のすべてを完全に知っているということです。詩篇139篇がそのことを歌っています。「【主】よ あなたは私を探り知っておられます。あなたは私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。ことばが私の舌にのぼる前に なんと【主】よ あなたはそのすべてを知っておられます。」(詩篇139:1~4)「あなたこそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。」(139:13)「私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられたとき私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに。」(139:15~16)しかし、逆に被造物は創造者を十分に理解できません。それどころか創造者のみわざですら、十分には理解できないのです。ヨブ記の38章以下にヨブに対する神のことばが出てきます。ヨブは3人の友人や途中から議論に加わって来たエリフと神について激しい議論を繰り広げます。神はじっとその議論を聞いていたのですが、ついに「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と堪忍袋の緒が切れたように語りだします(ヨブ記38:2)。そして41章まで徹底してお前はいったいどれだけのことを知っていると言うのか、と挑戦的に語りかけています。ヨブは神のことばに圧倒されて、自分が神の前に無知であったのに、知った風に語っていたことを恥じ入り、悔い改めて沈黙するのです。パウロはこの世の知恵、すなわち人の知恵では、神を知ることはできないと言います。Ⅰコリント1:21「この世は自分の知恵によって神を知ることがありません。」そして、自分は知っていると思う人こそ、知るべきことを何も知らないのだと言っています。Ⅰコリント8:2「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」人がどんなに誇ったとしても、神から見れば人の知恵など愚かさでしかなく、神の知恵とは比べようもないのです。詩篇90篇も神と人との違いを示します。神の永遠性に対して人のはかなさが強調されます。「山々が生まれる前から地と世界をあなたが生み出す前からとこしえからとこしえまであなたは神です(90:2)」「まことにあなたの目には千年も昨日のように過ぎ去り夜回りのひと時ほどです(90:4」」と神の永遠性が歌われる一方で、「あなたは人をちりに帰らせます。『人の子らよ帰れ』と言われます(90:3)」「あなたが押し流すと人は眠りに落ちます。朝には草のように消えています。朝 花を咲かせても移ろい夕べにはしおれて枯れています(90:5~6)」と人のはかなさ、有限性が強調されます。人は一瞬で消え去るものです。永遠から永遠に存在し、千年もひと時でしかない神とは全く違うのです。人は被造物の中では頂点にある特別な存在ですが、神の御前では限りなく小さい存在、無いに等しい存在に過ぎないのです。今朝開いているイザヤ41:14では「虫けらのヤコブ」と呼ばれています。これは芋虫の類を表すことばです。同じ虫でもカブトムシやクワガタなら、まだ少し高級感がありますが、芋虫にはそんなものは感じられません。無価値などうでもいいと無視されるようなものです。神の選びの民であったイスラエルの人々は「虫けらのヤコブ」と呼ばれているのです。当時、北王国イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、南王国ユダもそのアッシリヤの脅威にさらされていました。少し前のイザヤ36章~37章あたりには、アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲し、攻略しようとしている記事が出ています。アッシリヤの大軍に包囲され、エルサレムは風前のともしびにも似た状態でした。その原因は、主なる神への背信と偶像崇拝、弱者への虐げと搾取という社会的不正の横行でした。神のさばきを避けようがない深い罪の現実が、長年にわたって横たわっていたのです。信仰深いヒゼキヤが王でなかったなら、また、預言者イザヤがそのヒゼキヤのかたわらにいなかったなら、エルサレムも陥落しユダ王国も滅んでいたかもしれません。イザヤに励まされたヒゼキヤの信仰に応え、主の使いが一夜にしてアッシリヤ兵18万5千人を打ち殺し、エルサレムは救われたのです。それがなければエルサレムは陥落し、アッシリヤに蹂躙されていたはずです。直前まで権勢を誇っていた王であっても、たちまち捕らわれ人となり、辱めを受け、いのちを奪われるかもしれないのです。繁栄や平穏無事が没落や死・滅びと隣り合わせになっているのです。そのように人とははかない者、虚しい者に過ぎないのです。前にも紹介したと思いますが、睡眠薬を大量に飲んでいのちを断とうとした人から直接話を聞いたことがあります。睡眠薬で意識が薄れて行く中、学校から帰って来た幼い娘の「お母さん死んじゃ嫌だ」と泣き叫ぶ声を聞いた時、この子のために私は生きなければと感じたそうです。しかし、その時どうにもならなかったのです。薬が効き始め彼女は死に向かって確実に進んでいたのです。生きたい、生きなければと思った時、自分のいのちなのにどうすることもできない現実を思い知ったそうです。死のうとする時、自分のいのちはどうにでもできます。しかし反対に、生きたいと思う時、自分の意志や願いがどんなに強くても、自分ではどうにもできない現実があるのです。彼女は意識が消え去るまで、「主よ。私を赦し、私を生かしてください」と祈り続けたそうです。三日後に彼女は意識を取り戻し、娘のもとに帰ることができました。いのちに対する自分の無力さを知り、自分で生きているのではなく、神に生かされているのだということを思い知ったそうです。この世でどんなに権勢を揮っていても、神の御前では無いに等しい私たちです。自分のものと思っているいのちにすら、自分で何もできない私たちです。「虫けらのヤコブ」「虫けらの私」に過ぎないのです。しかし、その「虫けら」に過ぎない私に対して、神は「わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」と言ってくださるのです。(イザヤ41:9~10)虫けらに過ぎない私を「見よ。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする。あなたは山々を踏みつけて粉々に砕き、丘を籾殻のようにする」(イザヤ41:15)と約束してくださるのです。虫けらにとって山々や丘は途方もなく大きなものであり、どうにもならない障害、壁です。それを砕き粉々にする。そんなこと虫けらには不可能です。しかし、神はそれをさせると約束しておられる。全能の神が私たちを助け、私たちに力を与え、進ませてくださるのです。新型コロナウィルス感染症の影響で、これまでと同じように生活することができない状態に置かれている私たちです。ともに集まって神を礼拝するという人にとって最も尊い行為すら思うようにできないのです。不自由はもちろんありますが、これまでの生活、とりわけ神と自由に交われるということが、決して当たり前のことではなく神の恵みであったということを、再確認させられる機会でもあるように思わされます。自宅でひとり礼拝を献げる時、寂しさや物足りなさを感じるかもしれませんが、ひとりでも全能の偉大な神と向き合い、お父さんと呼び掛けて礼拝することができる恵みをかみしめたいと思います。虫けらに過ぎない私たちですが、全能の神、生きて働かれる神、永遠の神がともにいてくださるのです。「まことに、私たちの神、【主】は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。」申命記4:7 私たちは偉大な国民、神の民です。私たち自身が偉大なのではなく、偉大な神が私たち一人一人を選び取り、神の民としてくださったからです。私たちは独りではありません。神がともにいてくださいます。不自由と困難の中にあっても、この事実を忘れずに歩み続けて行きましょう。