自治医大前キリスト教会

礼拝メッセージ 2020/04/26


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「行動と思い」創世記 22:15-24小倉泉師
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創世記22:15~24「行動と思い」今朝の聖書テキストは一応、創世記22:15~24となっていますが、目を留めたいのは前半の15~19節になります。20~24節はアブラハムの兄弟の家系に関する記述で、イサクの妻リベカの背景を説明しています。そういう意味では24章のイサクの嫁取り物語の伏線のようなものです。ですから先に少しだけ触れておきたいと思います。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子を産みました」とあって、ナホルの妻はミルカであることがわかります。このミルカは創世記11:29によってハランの娘であることがわかります。ハランはアブラハムやナホルの兄弟です。ハランはカナンへの旅に出る前にカルデア人のウルで死んでいますから、おそらく一番上の兄と思われます。つまりナホルは姪に当たるミルカと結婚したことになります。ついでながらこのミルカはロトの姉妹になります。ここで思い出していただきたいのが、アブラハムとサラのケースです。創世記20:12、アビメレクに弁明する中で、アブラハムは次のように言っています。「本当に、あれは私の妹、私の父の娘です。でも、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」アブラハムとサラとは異母兄妹であったということです。この事実からわかることは、アブラハムの一族は同族内で結婚を行っていたということです。全部が全部そうだったかは分かりませんが、少なくとも同じ血筋の中から結婚相手を選ぶという傾向を持っていたのは間違いないでしょう。だからこそイサクの妻をめとるのに、わざわざアラム・ナハライムのナホルの町までしもべを遣わしたということでしょう。おそらくそこには主なる神に対する思いを共有するという信仰上の理由があったと思われます。さて、今日の本題に入りましょう。15~19節です。アブラハムが藪に角をひっかけていた雄山羊をいけにえに献げたあとで、再び主の使いが声をかけました。前回はイサクをまさに屠ろうとして、刃物を振り上げたアブラハムに対して「手を下してはならない」と声をかけました。この時は主の使いとして語っていました。それは「今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった」(22:12)と語り「あなたがわたしを恐れている」とは語らず、語っている「わたし」とアブラハムが恐れている「神」とを区別して語っているからです。しかし、今回は主の使いではあるのですが、主ご自身のことばを伝えるメッセンジャーとして語っています。「わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(22:16~18)「わたしは…誓う」「わたしは…祝福し…大いに増やす」アブラハムが受ける祝福の主語が「わたし」となっています。また、祝福の理由として「わたしの声に聞き従ったから」と言っています。アブラハムを祝福できるのは神ご自身だけですから、この「わたし」は主の使いを指しているのではなく、神ご自身を指しているのは明らかです。そして何よりも「【主】のことば」という表現が、神ご自身のことばを語っていることを示しています。この表現は預言書ではいたる所で目にする表現ですし、預言書でなくても、預言者が王や人々に神のことばを語る時に用いる定番の言い方です。それが用いられる時は厳粛な神の宣言、宣告を伝える時です。ですからここでアブラハムに語られていることは、非常に重要な事柄であるわけです。ちなみにこのような表現が旧約聖書に最初に登場するのがこの個所です。この表現の栄えある第1号が用いられたのがアブラハムなのです。さすがというべきでしょうか。ここで語られている神の祝福の宣言の内容は、これまでにアブラハムに語られたことと大きな違いはありません。アブラハムを祝福する。子孫の数を増やす。子孫によって地のすべての国は祝福を受ける。これらは繰り返し約束されて来たことでした。目新しいこととして言われているのは、アブラハムの子孫は敵の門を勝ち取るということです。「敵の門」を文字通りに理解するなら、神の民に敵対するカナン人の城壁のある町々の門となり、それを勝ち取るとは彼らを征服するということです。そうであるなら、カナンの地をあなたとあなたの子孫に与えると言われた約束の言い換えと理解することができるでしょう。しかし、そうだとすると、22章のあまりにも重い出来事の結果としては物足りない感じがします。神が全焼のいけにえとして献げよと命じたイサクは、神が約束したアブラハムへの祝福を実現する鍵の存在、キーマンでした。21:12には「イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ」と明言されています。そのイサクを献げるということは、神の約束の実現を放棄すること、破壊することに直結します。アブラハムにとっては信じられないことであり、それこそカルデヤ人のウルを旅立ってからの人生をすべて否定するようなことでした。しかし、アブラハムは夜を徹して神と、また、自分自身と格闘し、神に従うことを選び取る決断をしたのです。アブラハムの信仰が最も輝きを増した出来事、それが22章の出来事でしょう。そのことは神ご自身も認めておられることです。だからこそ、「【主】のことば」という表現が使われ、アブラハムの取った行動を理由として祝福の約束が与えられたのです。しかし、そうだとすると、目新しいことが何もない祝福では割に合わない感じがしてきます。皆さんはそう感じませんか。さらに「【主】のことば」という重大発表、重大宣言をする時の表現が使われているのに、これまで約束されて来たことの二番煎じでは、どうしても肩透かしされた感じでモヤモヤします。そんな風には感じませんか。このモヤモヤ感はどうにかならないものかと考えた時、創世記3:14~15が浮かんできました。「神である【主】は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」女の子孫は蛇の頭を打つ。これは原福音と呼ばれ、救い主預言の最初のものです。アブラハムは女の子孫ですからアブラハムの子孫も女の子孫です。アブラハムの子孫は敵の門を勝ち取る。敵を征服する。女の子孫は蛇=サタンを打ち砕く。両方を重ね合わせることで、アブラハムの子孫の中からやがて救い主が現れ、すべての人を死の恐怖の中に捕らえ支配していたサタンを打ち破る、ということを宣言していると理解できるのではないでしょうか。そのように理解すると、続く創世記22:18の「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」の意味がより明確になるのではないでしょうか。そして「【主】のことば」として宣言される最初のものとして、これならその内容に不足はないと納得がゆくのではないでしょうか。アブラハムが神の声に聞き従って行った行動、すなわち約束の子イサクを全焼のいけにえとして献げるという行動の結果、これまでに与えられていた神の約束が再確認されただけでなく、サタンを打ち破る救い主によって地上のすべての国々が祝福されるという約束が宣言されました。救い主のサタンに対する勝利ととらわれていた人々の解放という祝福の宣言ですから、めでたし、めでたし、です。この神の祝福をもたらしたのは、アブラハムが神の声に聞き従って、イサクを惜しまなかった=いけにえとして献げたからです。確かに本当に殺しはしませんでしたが、御使いの呼びかけがあと0.何秒か遅かったなら、イサクは実際に殺されていたでしょう。このことはアブラハムの心の中では、すでにイサクはいけにえとして神に献げられていたことを意味します。そう考えるとアブラハムの信仰は本当に凄いなと思うのです。これほどの信仰だから、神の祝福を受けるのも、神の友と呼ばれるのもしごく当たり前だよなと納得がゆくのです。しかし、この神とアブラハムとの関係を自分自身に当てはめてみると、凄いよな、そうだよな、などと言っていられないのです。なぜなら、自分はアブラハムのようにはとてもできないと感じるからです。感じるどころか、できないと確信するからです。そうすると私に対する神の祝福は大して期待できないよな、期待するのは虫が良すぎるよな、と暗い感じで俯くことになりませんか。やった分だけ見返りがある。Give and take これが私たちの社会の原則です。アブラハムと神との関係も、ここに記されていることばだけ見ると「やった分だけ見返りがあった」に見えてきます。「あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので」「あなたが、わたしの声に聞き従ったから」「わたしは自分にかけて誓う。」「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」どうですか。アブラハムがやったから神の祝福を得た、というかたちになるでしょう。神の祝福は欲しいけど、できない私が得られるのは大したことないよな、と思ってしまうのではないでしょうか。しかし、ちょっと待ってください。聖書は、特に新約聖書は、行いによって神の前に義と認められるとする行為義認を否定していたはずです。ユダヤ教的律法主義をパウロは徹底的に退け、信仰によって義と認められること=信仰義認の教理をキリスト教信仰の柱として打ち立てました。その考えのもとはイエス自身のパリサイ人や律法学者たちへの非難の中にすでにあったものです。イエスは律法を表面的に解釈し、字面に合っていれば良しとする彼らの生き方、あり方を非難していました。律法のことばの背後にある神の意図を受け止めること、そして神と人とに対する愛を原動力として生きることを求めました。ですから、創世記のこの記事も、アブラハムが神の声に聞き従って行動したから、神の特別凄い祝福にあずかったと単純に理解すべきではないと思うのです。そのように理解するなら、それは誤解、曲解であるかもしれないからです。信仰と行動の関係についてはヤコブの手紙が詳しく扱っています。交読文で読んだところです。ヤコブの手紙2章も単純に読むと誤解されやすい個所です。救いのためには行いが無ければならないと主張していると理解し、パウロの信仰義認と対立しており、聖書には矛盾があるという人もいるくらいです。確かに24節のことばだけを見るとそうも思えます。「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。」そこでは、行いによって義と認められる、とはっきり言っているからです。しかし、前後を含めて全体を見てみると、パウロと矛盾することを言っているわけではないことがわかります。まず、パウロは信仰さえあれば行いはどうでもいいなどとは決して言っていません。パウロの信仰義認は、救いの条件としてキリストの十字架のみわざを信じる信仰が不可欠だと言っているだけです。行いに関しては救いの条件にはなり得ないと言っているだけであって、善い行いに関しては勧めこそすれ、しなくて良い、する必要はないなどとは一切語っていません。パウロは信仰生活における行いを決して無視したり否定したりはしていないのです。ですから、ヤコブとパウロは対立、矛盾するというのは間違っています。ヤコブは2:21で「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められた」と言います。行為義認を主張しているとも見えますが、22節で「信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました」と続けます。アブラハムの行動の原動力は信仰であると言っています。神への信仰がアブラハムにイサクを献げるというあの行動を起こさせたと言うのです。その上で結論として「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです」(2:26)と信仰と行いとは不可分のもの、表裏一体、両方あって完成するものと言っているのです。神への信仰が無ければ正しくふさわしい行いはできないし、表面的には正しい行いであっても、神への信仰がなければ、その行いは神にとっては偽善でしかないのです。アブラハムのように神に対する明確な信仰がいつでもあれば、私たちの行動も立派なものになるのだろうと思います。しかし、いかんせん、私の信仰は見劣りしてしまいます。しばしば揺らぎますし、時には全く不信仰と言って良いほどの体たらくに陥ることもあります。神に喜ばれ、神を満足させる行動が全然できないかもしれません。ダメだなあとつくづく思ってしまうかもしれません。しかし、それでもです。信仰があると言うにはおこがましいと感じるようなものであっても、ささやかでも神への思いを持っているなら、私たちの行動にそれは反映されるのです。思いは私たちを行動へと押し出すのです。アブラハムの行動とは次元が違うでしょう。他のクリスチャンと比べても差は歴然とあるかもしれません。それでも私の神への思いは私の行動を促すのです。それを見逃すことなく神は受け止めてくださるのです。しかも、私の神への思いを生かすために、神は私にふさわしい良いわざをも備えていてくださるのです。小さな信仰かもしれません。信仰とも呼べないもの、漠然とした神への思いでしかないかもしれません。でも、それがあるなら、それは行動に反映され、行動を後押しするのです。神がその行動も備えてくださるからです。そして小さな一歩を積み重ねて行くことで、思いが信仰へ、行動も大きな良きわざへと変化してゆくのです。思えばアブラハムだって最初から立派だったわけではありません。30年、40年かけてああなったのです。自分の内にある神への思いを大切に、一歩一歩進んで行きましょう。
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