自治医大前キリスト教会

礼拝メッセージ 2020/05/03


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「夫婦の思いと約束の地」創世記 23:1-20小倉泉師
礼拝メッセージ20200503.mp3
聖書を読んでいると時々、聖書って面白い書き方をするなと思う個所に出会います。ある出来事をサラっとしか触れないところがあるかと思うと、何でここまで面倒くさく書くのかとか、こんなに同じこと繰り返さなくても良いのではないかと感じる書き方をしているところもあります。今朝開いている創世記23章はそういう面白い個所の一つだと思います。1~2節にはサラの死が書かれていますが、簡潔にサラっとその死の事実が述べられているだけです。しかし、3~20節は、アブラハムがサラを葬る墓地を手に入れるため、ヒッタイト人と芝居がかった交渉をしている様子が書かれています。私たちの感覚からすれば滑稽に見えるやり取りではないかと思います。そしてこんなに詳しく実況中継するかのように交渉内容を書かなくても良いのではと思うのです。私なら「アブラハムはサラを葬るための墓地を求めて、ヒッタイト人エフロンと交渉し、銀400シェケルでマムレに面するマクペラの畑地の洞穴を手に入れ、そこにサラを葬った。この土地は私有の墓地としてアブラハムの所有となった」くらいにまとめた方が、1~2節の表現と釣り合いが取れるように思うのです。3~20節で18節にもわたって書かれていますが、これくらいに要約しても意味内容では問題ないはずです。しかし、実際には18節にわたる文章で、交渉内容から、やりとりの際のしぐさやことばの一つ一つまで克明に記されているのです。この対比がなかなか面白いと思うのです。サラは創世記11章の終わりでアブラハムと一緒に登場します。その時はアブラムとサライという名前でした。二人一緒に主のことばに従ってカナンの地目ざして旅を続けています。それ以後20章まではアブラハムの妻として傍らにいつもいる感じで頻繁に登場します。18章では主ご自身が直接サラに話しかけ、1年後には子どもが産まれていると約束もされています。約束の子イサクを産む母親ですから、当然ですがサラは聖書の中で重要な人物であるわけです。しかし、21章の前半でハガルとイシュマエルを追い出した事件に登場した後、サラは聖書から消えてしまいます。22章のあの重大なイサクを全焼のいけにえとして献げるという出来事にも一切関わっていません。サラは90歳でイサクを産んだと考えられます。21章の出来事はイサクの乳離れの祝い宴の席で起こりましたから、サラはその時92~93歳でしょう。ここまではサラの歩みは確認することができます。しかし、それ以降30数年にわたってその動向は聖書に記録されていません。そして、唐突な感じで、サラは127歳で死んだという記事がここに出て来るのです。この30数年にわたる聖書の沈黙は何を意味しているのでしょう。情報がない分、逆に想像をかき立てられます。サラが死んだ場所はヘブロンでした。「サラはカナンの地、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ」(2節)とあります。キリヤテ・アルバはアブラハムの時代の名前でしょう。当時はイスラエルの領土ではなく、ヒッタイト人の町でしたから、そう呼ばれていたと思われます。創世記が記されたモーセの時代にはヘブロンと呼ばれていたと思われます。サラが死んだ時、アブラハムはヘブロンにはいませんでした。「アブラハムは来て」と書かれているからです。単にいなかったというよりは、住んでいなかったという方がより正確と思われます。なぜならモリヤの山からアブラハムとイサクが帰って行った先はヘブロンではなく、もっと南のベエル・シェバだったからです。「アブラハムは若い者たちのところに戻った。彼らは立って、一緒にベエル・シェバに行った。こうしてアブラハムはベエル・シェバに住んだ。」(22:19)22章のイサクはおそらく15~18歳くらいと考えるのが妥当だろうと思いますので、サラは100歳代の後半と思われます。死ぬ20年くらい前から、サラはヘブロンに住み、アブラハムとイサクはベエル・シェバに住む形で別居していたと考えられます。さらに22章の出来事の前、21章ではアブラハムはペリシテ人の地に長く住んだと言われています。「アブラハムは長い間、ペリシテ人の地に寄留した。」(21:34)そして、ペリシテ人の領主であったゲラルの王アビメレクとベエル・シェバで契約を結んでいます。この契約によってベエル・シェバの井戸がアブラハムのものになっていますから、アブラハムが寄留したのはベエル・シェバと考えられます。そうするともっと前からアブラハムはベエル・シェバに住んでいたことになります。アブラハムがヘブロンに住んでいたことがはっきり分かる最後の記述は18章の記事です。「【主】は、マムレの樫の木のところでアブラハムに現れた。彼は。日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。」(18:1)この18章でソドムとゴモラに対する嘆願がなされます。それが終わった時「アブラハムも自分の家へ帰って行った」(18:33)とありますから、この時、アブラハムがヘブロンに住んでいたのは間違いありません。この直後、ソドムとゴモラは主によって滅ぼされてしまいます。それを見届けた後、ヘブロンを引き払いネゲブ方面に移動したことがわかります。「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ」(20:1)と書かれています。この時にはサラも一緒でした。「ゲラルに寄留していたとき、アブラハムは、自分の妻サラのことを『これは私の妹です』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた」と続けて書かれています(20:1~2)。サラがアビメレクの許から解放された後、彼らがベエル・シェバに住んだのか、ヘブロンに戻ったのかは定かではありません。イサクが生まれたのもどちらなのかわかりませんが、アビメレクとの関係を考えると、ヘブロンの方が昔からの盟約を結んだ人々もいて安心できたのではないかと思われます。明確ではありませんがいったんヘブロンに戻り、そこでイサクは生まれたのではないかと私は考えています。21章のハガルとイシュマエルの追い出し事件の後、アブラハムとサラとの間に微妙な空気が流れ始めたのかもしれません。あの事件でアブラハムが苦しんだのは確かです。イシュマエルはアブラハムの実の子であり、それも最初の子です。正妻サラの子ではありませんが、紛れもなくアブラハムにとって長子です。イサクの誕生が約束されるまでの13年間、イシュマエルはアブラハムにとって唯一の自分の血を引く息子だったのです。アブラハムがどれほどの愛情を注ぎ大切にしていたかは容易に想像できます。また、サラにしても、自分の産んだ子ではありませんが、当時の慣習に従い自分の発案で手に入れた、その意味では正当な息子であって、やはり大切にしていたのは間違いないでしょう。しかし、イサクの誕生によって、大きな変化が生じました。サラにとってイサクこそが全てであって、イシュマエルはもうどうでもよい存在になってしまいました。いやむしろ邪魔な存在になってしまいました。イシュマエルはアブラハムの後継者ではなく、真の後継者であるイサクの陰でイサクを支えることに徹するなら存在する価値はあっても、イサクと張り合うなら排除しなければならない存在だったのです。追い出し事件はサラのこのような思いが明白に示された事件だったように思います。イシュマエルがイサクをからかったのは咎められなければなりませんが、同じようにサラのイシュマエルとハガルに対する徹底的な排斥も非難されるべきではないかと思います。なぜなら、イシュマエル誕生はサラ自身が発案してアブラハムに強要したことだからです。神の約束を待ちきれず、自分の考えで事を行った結果がイシュマエルの誕生でした。最も重い責任はサラにあるのです。にもかかわらずサラはその責任を投げ捨ててイシュマエルとハガル、そしてアブラハムに負わせることになるのです。どう考えてもこの時のサラは身勝手でしょう。一方アブラハムにとってイシュマエルは実の子です。神の計画外ではあっても紛れもなく自分の血を引く子です。そのイシュマエルを捨て去ることはアブラハムにとっては身を切られるように辛いことだったはずです。神が介入して止めてくれないだろうかとアブラハムは期待したかもしれません。しかし、神は冷厳にイサクこそ約束の子であって、イシュマエルは関係ないからサラの言うとおりにせよと命じます。神に言われたら、アブラハムに選択の余地はなく従うしかありませんでした。このイシュマエルの処遇をめぐって、アブラハムとサラとの間にわだかまりが生まれたのかもしれません。この事件の後、直後ではないと思いますが、アブラハムはペリシテ人の地に長く寄留するようになるからです(21:22以下参照)。そして、そのうちにイサクもアブラハムと一緒にベエル・シェバに住むようになります。それはモリヤの山でイサクを献げよとの命令を受け、アブラハムが従った時、出発してから三日目にモリヤの山が見たと書かれています。「三日目に、アブラハムが目を上げてみると、遠くの方にその場所が見えた。」(22:4)ヘブロンからモリヤの山までは直線距離で30㎞ほどしかありません。朝早く出かけたら1日で着いてしまいます。しかし、ベエル・シェバからだと直線距離は70㎞ほど、3日の旅がぴったり当てはまります。サラは20年くらいヘブロンで一人暮らしていたと考えられるのです。もちろんはしためやしもべたちは大勢いたでしょうが、肝心のアブラハムもイサクもいない状況で暮らしていたと思われるのです。時々アブラハムたちは帰って来てはいたでしょうが、そこに住むということは無かったように見えるのです。その原因はサラのイサクに対する溺愛ともいうべき思いの強さ、それの裏返しであるイシュマエルに対する憎しみ、敵意の強さを、アブラハムが感じていたからではないかと思うのです。イサクと深く結びついたサラの思いは、場合によっては神のみわざをも打ち壊しかねないと心配したのかもしれません。それはまた、イサクの神に対する信仰の在り方にも影を落とすと判断したかもしれません。事実、モリヤの山の件がサラのいるところで告げられたとしたら、果たしてアブラハムはモリヤの山に行くことができたかどうか、かなりあやしくなるのではないでしょうか。イサクをささげようとするアブラハムをサラが黙って許すとは思えません。イシュマエル追い出し事件の時以上に、サラが半狂乱になってアブラハムを阻止しようとするのが容易に想像できます。ですからアブラハムはサラには一切関わらせることなく、イサクを連れてモリヤの山へ行ったと思われるのです。イサクを産む以前のサラは、イシュマエル誕生の問題はあったものの、アブラハムを夫また家長として敬い、そのことばに従順に従う妻でした。理不尽と思えるアブラハムのことばにも従順に従ってきました。そのために危機的な状況に置かれることも経験してきました。それでもアブラハムに従い、新約聖書では妻の鏡として称賛される人でした。交読文で読んだⅠペテロ3:5~6に登場しています。「かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。」妻たちに対してサラのようになれとペテロは語っているのです。一方、サラが従順な妻であった頃のアブラハムは、良い時と悪い時がはっきりしている、信仰的には不安定さの残る人物でした。ですからサラの存在は大きな助けであったと思います。イサクの誕生が具体的に示されるようになって来た頃から、アブラハムの信仰は成熟し安定してゆきます。アビメレクとの関係で大失敗もあるのですが、イサクの誕生後はぶれることがなくなります。そしてその頂点は22章、モリヤの山での出来事につながります。イサクの誕生によって、神の約束の確かさを体験し、神への信頼が強まったということでしょう。しかし、サラはイサクの誕生の結果、イサクに対する思い、愛情が最優先になってしまったように思えます。イサクを溺愛するあまり、イシュマエルはもとより、アブラハムも、さらには神も二の次、三の次になってしまったように感じます。サラが21章以降聖書から消えてしまった背景には、こういうことがあったのではないかと思うのです。それは同時にアブラハムとサラとの関係にも影響を及ぼしたに違いありません。夫婦ではありますが、それぞれの思いの向かうところがずれて距離が広がって行って、サラはヘブロンに住み、アブラハムはベエル・シェバに住むということになったように思うのです。しかし、サラが死んだという知らせを受けた時、アブラハムはヘブロンに行って、その死を悼み悲しみ、涙を流しました。この涙の意味を考えさせられます。イサク誕生後の夫婦関係は万全、健全ではなかったかもしれませんが、周囲の手前、儀礼的な涙を流したわけではないと思うのです。それはサラを葬るために私有の墓地を手に入れようと、アブラハムがヒッタイト人たちと一生懸命交渉しているからです。アブラハムはここでヒッタイト人たちが言っているように、寄留者ではありますが、彼らから一目置かれる実力者です。それはアブラハムが創世記14章に書かれている戦争の英雄であることや、主の祝福と守りを受けて繁栄している族長であることに基づいているでしょう。ヒッタイト人たちは自分たちの持っている墓地の最上のものに葬ることを許可します。一見、好意的な話に見えますが、実際は違います。丁寧な言い方ではありますが、自分たちの土地をお前に売る気はない、お前に私有の土地を所有させることはお断りだと言っているのです。異分子が自分たちの中にしっかりとした地歩を築くことに対する警戒心が露に出ているのです。アブラハムはそんな彼らを相手に忍耐強く交渉します。共同体を相手にした交渉は難しいと判断し、交渉相手を個人に替えます。ツォハルの子エフロンに話を持ってゆきます。個人間の売買交渉なら、共同体は責任がない分、干渉もしにくくなります。エフロンも最初は共同体と同じように答えます。しかし、注意して見るとしたたかな売り込みをしていることがわかります。アブラハムは墓地にするマクペラの洞穴を譲ってくれと言っているのですが、エフロンは畑地を譲ると言い、それにマクペラの洞穴も付けるという言い方です。譲りますから自由に使ってくださいという言い方ですが、これは当時の売買交渉の定番のやり取りらしく、「譲る」を鵜呑みにしてタダでもらえると思ったら大間違いなのです。タダでなんかとんでもない、代金を取ってくださいと答えないと話にならないのです。ですからアブラハムも代金を受け取ってくださいと申し出るわけです。エフロンはそうまで言うなら値を付けましょうという形で代金を提示するわけです。エフロンが提示した額は銀400シェケル(4560g)でした。畑地の広さがわかりませんから何とも言えないのですが、当時の記録の中に、村一つが銀100シェケルで売られたというのが残っているので、銀400シェケルはかなり吹っ掛けられた額と言えるでしょう。アブラハムなら払えない金額ではないので、アブラハムは即座に同意して支払います。そして手に入れたマクペラの洞穴にサラを葬りました。色々あったけれども、特に晩年には隙間風が吹くこともあったけれど、127年の生涯の中でサラはアブラハムに従い支えて来た妻でした。主の約束を待ってともに忍耐を経験してきた戦友でした。サラの死に臨んでアブラハムの心に、サラと過ごした日々が走馬灯のように思い返されたのでしょう。約束の地を目指して歩んできて、その約束の地で死んだ妻を、約束の地にある自分の所有地に葬ることこそ、亡き妻への最後の責任であり、妻への感謝を表すこととアブラハムは考えたのだと思います。ですからアブラハムはサラを葬る墓地の所有にこだわったのです。忍耐強く交渉し、法外な値段にも嫌な顔をせず即金で支払ったのです。そして、このマクペラの洞穴こそ、神が約束されたカナンの地をあなたとあなたの子孫に与えるということの実現の第一歩だったのです。その約束の地にアブラハムによって最初にサラが葬られたのです。やがてここにアブラハム自身も葬られ、サラと一緒に眠ることになります。そして、イサク、リベカ、レア、ヤコブも葬られます。つまり神の契約を受け継ぐ三代の族長とその正妻が皆ここに葬られことになるのです。三代の族長夫婦で問題のなかった夫婦はありません。皆、相当に面倒な問題を抱えていました。生きている時には互いにぶつかり傷つけ合うこともありました。でも最後の時には互いの思いを全部まとめて受け止めて、夫として、妻として同じ墓に葬られたのです。彼らの葬られた墓は単なる墓ではなく神の約束の確かさを示す地なのです。いろいろあったけれど、いろいろあるけれど、これが神の導く夫婦なんだなと思わされます。振り返って我が家はどうだろうかと考えさせられます。今はまだちぐはぐかもしれないけれど、最後には互いの思いを受け止め、約束の地へ一緒に入って行く者となりたいと思います。
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