「リベカとイサク」創世記 24:52-67小倉泉師
礼拝メッセージ20200517.mp3
モリヤの山での出来事の後、イサクはアブラハムと一緒にベエル・シェバに住んだようです。ベエル・シェバではアブラハムとともに家畜の世話をしていたと思われます。時々、ヘブロンにいる母サラの許へも帰っていたと思われますが、アブラハムがそうだったように、イサクも生活の拠点はベエル・シェバだったと思われます。アブラハムとそんな生活を続けている間に族長としての仕事を身に着けるとともに、主の約束の内容も理解し、それを受け継ぐために必要な主に対する信仰も成長させていったと思われます。主の約束を受け継いで行く人間側の準備は着実に進められていたのだろうと思います。イサクが37歳の時、母サラが亡くなりました。サラの死はアブラハムにとって自分のいのちがあとどれくらい続くのかを考えさせたのではないかと思います。自分が主から受けた約束を受け継ぐ者としてイサクは順調に成長しています。イサクまでは何の心配もない。しかし、イサクはまだ独身であり、子どももいない。イサクの後を受け継ぐ者が今はまだいない。自分が生きているうちにイサクの妻を迎え、イサクの後、主の約束を受け継いで行くべき孫の顔を見たい、と思ったのでしょう。それが24章の大半を使ったイサクの嫁取り物語であったわけです。イサクがリベカと結婚したのは40歳の時ですから、サラの死から3年の後です。イサクの結婚相手となる女性は、主を信じる者でなければなりません。偶像崇拝をしているカナン人では絶対にダメなわけです。となると、アブラハムの親族、それも、主に導かれてカルデア人のウルを離れて一緒にカナンの地を目指してきた親族でなければなりません。彼らはアブラハムの父テラとともにハランを中心としたパダン・アラムの地域にとどまった人々でした。アブラハムがカナンの地へ旅立って以来、パダン・アラムに残った人々との交流がどの程度あったのかはわかりません。アブラハムにとってカナンの地こそ約束の地ですから、アブラハムがパダン・アラムを訪ねるということは無かったと思われます。せいぜい使者を遣わして情報を交換する程度だったと思われます。22:20以下にあるアブラハムの兄弟ナホルの家族の記事はそういう情報でしょう。これはおそらくイサクの誕生をアブラハムが伝えたことに対する返信と思われます。ベエル・シェバとパダン・アラムとは約1000㎞離れていますから、互いの状況はほとんど知ることができません。そんなところからイサクの妻を迎えるわけですから、ただ使者を送れば事は済むというわけにはゆきません。しっかりした準備が必要です。やがて族長となるイサクの妻を迎えるわけですから、使者もそれなりの立場・身分を持った者でなければならないでしょう。結納となる品々も相当なものを用意する必要があります。旅は片道だけでも1か月くらいかかりますから、その間、盗賊に襲われないよう護衛も必要です。実際に使者を遣わすまでにかなりの準備が必要になります。それらを全て整えたうえで、最年長のしもべ、アブラハムの家の№2が使者として送られたわけです。そして、リベカが主によってイサクの妻として備えられているのに出会ったわけです。それが先週見たところです。結婚話は、主が導いておられるという確信によって、とんとん拍子で進みました。リベカの父ベトエルも、兄のラバンも、しもべの話しをそのまま受け止めました。そして「【主】からこのことが出たのですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前におります。どうぞお連れください。【主】が言われたとおりに、あなたのご主人の息子さんの妻となりますように」(24:50~51)と言って、すぐに結婚を承諾しました。しもべは導いて下さった主に感謝の礼拝を献げます。それから結納の品々を贈り、ようやく食事となりました。しもべは食事をし、肩の荷を下ろして一夜の休息を得ました。朝になると、しもべはリベカを連れてイサクのもとに帰らせてほしいとラバンに言います。急な話にラバンもリベカの母親も驚きます。当然でしょう。リベカがイサクと結婚することは確かに決まったけれども、結婚話そのものが昨日初めて聞いたことであり、今日すぐにカナンの地にリベカを連れて行くというのは、あまりにも性急すぎて心の準備が整わないということなのでしょう。彼らは10日ほど準備期間を与えてくれとしもべに答えます。「『彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど私たちのもとにとどまらせて、その後で行かせるようにしたいのですが』と言った」と55節にあります。驚きと戸惑いは当然だろうと思います。しかし、しもべは、主のみこころがここまで明確に示されているのだから、リベカをイサクのもとに一刻も早く連れて行き、主が導いておられるこの結婚を実現させてほしいと交渉します。しもべのことばの中心にあるのは、主が導き、みこころを示し、私の旅を成功させてくださったということです。そして本当に完成するのは、リベカをイサクのもとに連れて行って、二人が夫婦として結ばれた時だということです。ですから、この時点ではまだ半分だけの完成であって、旅の完全な成功ではないのです。しもべの願いだけならラバンたちは恐らく同意しなかったでしょう。1000㎞も離れた所に、娘を、妹を嫁にやるのです。二度と会えないかもしれないのです。別れのために準備の時間が必要なのは当然でしょう。しかし、主の導きであると言われたので、自分たちの思いに固執するのもまずいと思ったのでしょう。リベカの考えを聞いてみようと提案しました。57節「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」おそらくラバンたちは、リベカも別れを惜しんで時間を取るだろうと考えたんだと思います。そして、本人がわかれの時間が欲しいと言えば、しもべも納得するだろうと計算したと思います。しかし、リベカの答えは彼らの思惑を覆しました。「彼らはリベカを呼び寄せて、『この人と一緒に行くか』と尋ねた。すると彼女は『はい、行きます』と答えた。」(58節)このリベカの答えには正直驚きます。一度も会ったことのないイサクの妻となるために、その話を初めて聞いた翌日に、1000㎞も離れた外国に家族や友人たちと離れて一人で行くのです。もちろん乳母のデボラや侍女たちはついてゆくので、まったくの独りぼっちではないですが、考えれば不安になって当たり前の状況です。祖父の兄弟の家だと言っても、誰一人リベカの知る人はいないのです。それなのにリベカは躊躇することなく「はい、行きます」と答えたわけです。リベカにその決断をさせたものは何でしょうか。信仰以外考えられません。アブラハムのことも、イサクのことも、カナンの地のことも、ましてや主がアブラハムに約束したことも、何一つ知らないのです。それでも、「はい、行きます」と決断したのは、主がこのことを導いているという事が明らかだったからでしょう。しもべの詳しい説明をリベカも聞いたはずです。しもべが主に祈った通りのことを自分がしたこと。それによってしもべはイサクの妻となるべき女性はリベカだと確信したこと。そしてリベカはアブラハムの兄弟ナホルの直系の孫娘であったこと。非の打ち所がなくすべてを満たした主の導き。それを聞いたら、主が私に目を留め、私に呼びかけ、イサクの妻になるように導いておられるのは間違いないと確信できたからでしょう。リベカは信仰によって主に従うことを選び取ったのです。主のみこころが示されても、それに従うかどうかはその人の信仰にかかってきます。みこころに喜んで従う人がいます。従いはしますが、みこころを喜ばない人もいます。みこころだと分かっていても従えない人もいます。あえて反抗して従わない人もいます。信仰者でもいろいろあります。人によって違うだけでなく、一人の人でも、あることには喜んで従ったけれど、別のことでは反抗して拒否したなんてこともあります。信仰というのは一つの決まった形を持ったものではなく、生きものであって、その時その時でいろんな姿かたちを取るように思います。いつも喜んで従えるのがベストでしょうが、そうでない時でも信仰が無くなったわけではないように思います。そうでないと、私たちは信仰を持っているなんて言えなくなるのではないでしょうか。なぜなら私たちはいつも喜んで主に従っているわけではないからです。それはそれとして、この時のリベカの決断は信仰に基づいた凄い決断だったと思います。こうしてリベカはしもべとともにイサクのもとに行きました。イサクはベエル・シェバを中心にネゲブ地方の各地を巡りながら家畜の世話をしていたようです。家畜を追っての長旅の後、自分の家(建物ではなく天幕群と思われるが)に戻って来たイサクです。一つの仕事を責任を持ってやり遂げた充実感と、トラブルに巻き込まれることなく無事に帰って来ることができた安心感で、イサクの心は満たされていたのではないかと思われます。そんなイサクは夕暮れ近くに散歩に出かけました。「散歩に出かけた」は聖書でここだけに出てくる表現で意味がはっきりしません。新改訳はシリヤ語訳聖書にそって「散歩」と訳しています。それは65節で「野を歩いて」と表現されているイサクの姿とも一致します。一方、七十人訳やラテン語訳などでは「瞑想」と訳されています。「瞑想」を意味するヘブル語とここで使われるヘブル語が非常に似ているからです。イサクはボーっとしたくて野に行ったのではなく、独りで静かに今回の旅を振り返り、主の守りと祝福を感謝するために、野に行ったと考えるのが良いように思います。瞑想し祈りつつ野を歩いていたイサクがふと目をあげます。偶然ではなく、祈りの中に主が働かれたのではないかと思います。夕日を背になのか、夕日に照らされてなのか分かりませんが、ラクダの群れが近づいてきます。その群れの足が止まり、誰かが降りました。一方、リベカも前方に人影を認めました。それがイサクであろうと想像したようです。リベカはラクダから降りて、しもべにあの人は誰かと尋ねています。この「降り」は「落ちる」ということばで、夫となるイサクか早く確認したいというリベカの気持ちがよく現れていると思います。イサクは彼らの方に近づいて行きます。近づいてゆくと、父の信頼厚いしもべがいることに気づきます。そしてその傍らに若い女性とその侍女らしき女たちもいます。しかもその若い女性はベールを取って身をおおいました。結婚するまで妻となる女性は夫の前では顔をおおう習慣が当時はありました。リベカはそれをしたのです。自分の妻を迎えるためにしもべが遣わされたことをイサクが知っていたかどうかは分かりません。しかし、この時、イサクはそのことを喜ばしいものとして受け取ったのです。しもべは自分のしてきたことをイサクに話しました。「話した」とやくされることばは、普通は書き記すと訳すことばです。しもべはイサクの心に書き記すようにすべてを話したということです。使命を託された時の危惧から始まり、主が必ず成功させてくださると言い切ったアブラハムの信仰、ナホルの町で祈った祈りのことばに完璧に一致したリベカとの出会い、リベカがアブラハムの兄弟ナホルの孫娘であったこと、家族の躊躇にもかかわらずリベカはカナン行きを拒まずすぐに旅立って来たこと。それらはこの結婚が何よりも主によって定められ、導かれていることを明らかにしていること。また、リベカが主に誠実な信仰を持っており、イサクを主が備えてくれた夫として受け止めていること。それらはこれからのイサクと主、イサクとリベカとの関係に重要です。ただ妻を連れて来ただけでなく、この結婚の背後にある神のみこころ、アブラハムの信仰、リベカの愛と真実、これらを忘れないように心に書き記させたのです。イサクもそれを真摯に受け止め、リベカを妻として迎え、彼女を愛したのです。サラは基本的にはアブラハムに忠実に従いましたが、ハガルとイシュマエルのことでは受け止め方に違いがあり、それがもとで晩年は別居していたようです。ヤコブの場合はレアとラケルとは血のつながった姉妹でしたが、ヤコブの愛をめぐってかなりの葛藤がありました。そばめのジルパやビルハも含めその夫婦関係は常に緊張関係にありました。しかし、イサクとリベカ夫婦に関してはそういったトラブルが見当たりません。イサクもリベカもそれぞれに主に従うことを選び取った人だったからでしょう。主に導かれているとの確信を持った二人の組み合わせが、安定した夫婦を生み出し、互いの愛を強めていったのです。そして、そこからヤコブとエサウが生まれ、約束を引き継ぐ者が与えられ、アブラハムもすべてをイサクに託して安らぐことができたのです。リベカは主の約束を実現するためにイサクの妻として主が備えた女性だったと思われます。主はご自分の計画を実現するために、すべてを、人も、ものも、時も備えられるのです。私の人生にも、皆さんの人生にも、同じように備えがあるのです。そのことを信じ期待し歩んで行きましょう。