「幸せな晩年と引き継がれる祝福」創世記 25:1-11小倉泉師
礼拝メッセージ20200524.mp3
24章の主題はイサクの結婚でした。アブラハムになされた主の約束を、イサク箱として引き継いで行くわけですが、そのイサクの後に引き継ぐべき孫がいなければ、主の約束は途中で終わってしまいます。ですからイサクの結婚はアブラハムにとっても、主にとっても重大な事柄であったのです。1000㎞も離れたパダン・アラムからイサクの妻にリベカを迎えることは、決して簡単なことではありませんでした。まさに主が働いて下さらなければ実現不可能なことだったに違いありません。そして主はものの見事に働いて下さり、イサクとリベカは結婚に導かれたのです。アブラハムにすれば、イサクが結婚し、やがて孫も生まれて来るに違いない。これで本当に安心することができたのだろうと思います。主の約束を受け継ぐ主役は、アブラハムからイサクへと、そしてイサクの子へと移って行くことになります。25章はその主役交代を示しています。今朝はアブラハムの晩年とその死を見て行きたいと思います。 25章の冒頭にアブラハムのもう一人の妻ケトラのことが出てきます。「アブラハムは、再び妻を迎えた。その名はケトラといった。」創世記の記述を単純に読めば、サラが死んだ (23:1)後に、アブラハムはケトラをめとったように見えます。サラが死んで3年経ち、イサクも妻リベカを迎え、サラを失った悲しみから立ち直ったようだから、アブラハムもサラのことに踏ん切りをつけ新たな歩みのために再婚した、と私たちは理解したくなります。聖書の原則はいつでも一夫一婦制です。一人の夫に一人の妻です。ですから、私たちはアブラハムが何人もの女性を同時に妻にしていたなどとは考えたくありません。それは姦淫になるからです。それでは信仰の父アブラハムのイメージに合いません。でもサラの死後ならケトラと結婚しても、一夫一婦制の原則は守られており姦淫にはなりません。ですから普通なら25章は24章に続くその後の出来事として読んでしまうことが多いです。しかし、それはこの箇所の字面だけを見た思い込みに基づく謝った解釈だろうと思います。聖書の記述は必ずしも時間の経過順には書かれていないのです。この記事は明らかにアブラハムが若かった頃のことを書いています。なぜなら、もしも時間順であるとすれば、再婚した時アブラハムは140歳です。イサクが生まれた時より40年も後になります。イサクが生まれて来るのにも「百歳の者に子が生まれるだろうか」(17:17)とアブラハムは心の中で笑ったのです。アブラハム自身がそんなことあり得ないだろうと主のことばに疑いを持ったわけです。その時から40年後に結婚して、「ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハ」と6人の子をもうけたことになります。イサクの場合は主の約束に基づくいわば奇蹟です。ですから生まれるのは当然で不思議ではないでしょう。しかし、ケトラの子たちは主の約束とは関係ありません。アブラハムが自力で生んだ子どもたちです。主の奇蹟でも子どもが生まれるなんて不可能だろうと言ったアブラハムが、その40年後に自力で6人の子を生んだことになります。時間順に書かれているとしたら、これは明らかにおかしいでしょう。Ⅰ歴代誌1:32ではケトラに対して「側女」という用語が使われています。「側女」は妻とは区別されることばで、しかも、妻の存在を前提にしたことばです。ですから、ケトラは正式の妻ではなく側女であったことがわかります。さらに言うなら、25:6には「側女たち」という表現もありますから、アブラハムにはケトラ以外にも側女がいたことがわかるのです。とにかくサラがアブラハムの正妻であった時代に、アブラハムはケトラをそばめとしていたということでしょう。ケトラがアブラハムの子を産むのを見て、自分の女奴隷ハガルを利用すれば、自分も子どもの母親になれるに違いないと考えたのかもしれません。イシュマエル誕生の背後に、そばめケトラとその子どもたちの存在があったのかもしれません。 2節から4節にかけてケトラの子どもたちと孫たちのことが書かれています。ケトラの子どもたちはシナイ半島からアラビヤ半島の紅海側(西側)を中心に住みついたようで、アラビヤ系の民族になったと考えられます。イザヤ21:13ではアラビヤに対する宣告の冒頭にデダン人の隊商への呼びかけがあります。これまでに出て来た系図や一覧表と同様に、ケトラの6人の子どもの名前が挙げられた後、ヨクシャンとミディアンの子どもたちだけが取り上げられています。ヨクシャンが取り上げられるのは、彼の子シェバとデダンに由来する地名や民族名が生まれ、このあと何度も聖書に登場することになるからです。シェバはソロモンを訪ねて来たシェバの女王で有名ですし(Ⅰ列王10章)、デダンは神のさばきに関連する預言書の中に出てきます(イザヤ21:13、エレミヤ49:8など)。ミディアンはアラビヤ系の民族で最も有名でしょう。ヨセフが売られたのはミディアン人であり、モーセが寄留したのはミディアンの長老の所であり、ギデオンが戦ったのもミディアン人でした。ミディアン人はイスラエルの敵対勢力として登場し、しばしばイスラエルと戦っています。ミディアンにしろイシュマエルにしろ、アブラハムの直系子孫でありながらイスラエルの敵となるのです。サラから生まれる子が約束の子でしたが、主のみこころと関係なく、いわばアブラハムの欲望が生み出した子どもたちが、後になって余計な問題を引き起こしているわけです。人の行動は、ことばや思いも含めて、それがなされた時だけでなく、後々になっても影響を及ぼすことがあるのです。何かをしようとする時に、今目の前にあることだけでなく、それが後にどんな影響を及ぼすかも考えて行動出来たら良いですね。側女の産んだ子どもがどれくらいいたのかははっきりしませんが、アブラハムにとって最も大切なのは約束の子であるイサクでした。イサクなしにはアブラハムに未来の希望はないからです。イサクがアブラハムに与えられた主の約束を確実に引き継いで行くための最善は何か。それをアブラハムはイサクが生まれてからずっと考えていたはずです。側女の子どもたちはイサクよりはずっと年上であったと考えられます。おそらくイシュマエルよりも年上でしょう。家系図で表せば横並びの異母兄弟ですが、実年齢では一世代上、叔父、叔母の世代でしょう。また、彼らはどう見ても主なる神を信じているとは思えません。後に彼らが住む地域は多神教やアニミズムに支配された地域です。そんな彼らがイサクのそばにいたなら、幼い時からイサクがその影響を受けるのは十分予想できます。アブラハムにとってそれはどうしても排除しなければならないことでした。主の約束を引き継ぐことができなくなるからです。また、彼らの誕生はアブラハムの欲望の結果とも言えます。もっと言うなら姦淫の罪の結果です。一方イサクは主の約束の成就として、恵みと奇跡によって生まれました。両者は水と油、まったく異なるのです。そのイサクに罪の影響が及ぶことのないように、アブラハムは側女の子を東方の国に去らせたと思われます。イサクの未来、それはアブラハムの未来でもありますが、それを脅かす可能性のあるものをすべて、自分の生きているうちに取り除いたことになります。それは主の祝福が正しく引き継がれてゆくためでした。そして、アブラハムは175歳で生涯を全うすることになります。カナンの地に来て100年、イサクが生まれてから75年、イシュマエルが生まれてから89年、サラが死んでから38年、イサクがリベカをめとってから35年、ヤコブとエサウが生まれてから15年アブラハムは生きたことになります。「幸せな晩年を過ごし」と言われていますが、それはいつのことを指しているのでしょうか。約束の成就としてイサクが誕生した時以降でしょうか。でもイサクの誕生後にも、イシュマエルをめぐるサラとの悶着がありました。イサクを献げよと命じられたモリヤの山の出来事もありました。ですから、イサクの誕生が幸せな晩年の始まりとは言い難いように思います。モリヤの山の出来事以降なら幸せでしょうか。いや、サラの死によってアブラハムは大いに嘆いていますから、それも違うように思います。アブラハムの生涯を振り返って行くと、イサクにリベカという妻が主によって与えられ、アブラハムに与えられた主の契約が、子孫に受け継がれてゆく道筋が整った時が「幸せな晩年」ではないかと思われます。単に長生きしたということではなく、年を重ねる中に人生に満ち足りてということでしょう。そして、人生に満ち足りるのは主との関係において平安を得る以外にありません。自分が救われていると言うだけではなく、その中で自分に与えられている使命が成し遂げられ、約束が実現してゆくのを、あるいはその道筋が整えられてゆくのを見る時に、アブラハムのように平安を得、人生に満ち足りることができるのではないでしょうか。主との関係を確立し、主に仕え続け、アブラハムのように幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、主の民に加えられる。そういう人生を送ることができたならなんと幸いでしょうか。175歳で亡くなったアブラハムは、イサクとイシュマエル、二人の息子によってマクペラのほら穴に葬られました。このほら穴はアブラハムがヒッタイト人たちと交渉して、法外な値段を吹っかけられたにもかかわらず、それを受け入れて手に入れた土地でした。それは主の契約をともに担う信仰のパートナーであり、最愛の妻であったサラの遺体を葬るためでした。ヒッタイト人の意向によってどうなるか分からない不安定な貸し墓地ではなく、末代までも誰にも干渉されず、自由に使える自分の墓地を手に入れるためにアブラハムは腐心したのです。そしてそれはまた、約束の地を自分の所有とする小さな第一歩でもありました。アブラハムはそこにサラを葬りましたが、今度は自分自身がイサクとイシュマエルの手によって葬られたのです。イシュマエルはサラによって追い出されたようなものであり、その後、アブラハムの家とは離れて生活していましたが、ここではイサクと一緒にアブラハムを葬っています。イシュマエルには複雑な思いもあったかもしれませんが、イサクと協力してアブラハムを葬っています。アブラハムにとってイサクは主の約束の息子です。イシュマエルも主の約束があったからこそ、自分たちで何とかしようとして生まれた子です。そういう意味ではどちらも主の約束と無関係の存在ではありません。その二人の息子が力を合わせて葬ってくれたのですから、アブラハムにとってそれは人生最後の喜びだったのではないかと思います。アブラハムは主の祝福を受け、満ち足りてその地上の人生を終えました。そして、その祝福は今度はアブラハムの子イサクに引き継がれて行きました。主の祝福は初めの約束のように確かにアブラハムの子孫に引き継がれてゆくのです。それは主が真実な方であり、どこまでも約束に忠実な方であるからです。その祝福の約束が長い年月にわたって受け継がれ、イエス・キリストによって現代の私たちにも及んでいるのです。私たちはアブラハムよりもずっと弱く小さな信仰しかない者でしょう。主の祝福を受け継ぐのに決してふさわしい者ではありません。しかし、イエス・キリストがその私たちの悪いところ、弱いところ、できないところ、罪のすべてを引き受けて十字架で罰を受けてくださったから、すべて赦され、主から愛される神の子どもとされたのです。主の祝福を味わいながら、アブラハムのように満ち足りた人生を歩んで行きたいものです。