自治医大前キリスト教会

礼拝メッセージ 2020/05/31


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「教会は聖霊によって一つ」使徒 2:1-12小倉泉師
礼拝メッセージ20200531.mp3今日はキリスト教の3大祭りの一つペンテコステです。初めて聞く人はへんてこな名前だと思うでしょう。日本語では格調高く五旬節と訳されています。他の3大祭りクリスマス、イースターと並べると、世間一般の認知度はぐっと下がって地味な感じを受けるかもしれませんが、クリスチャンと教会にとってはとても大切な記念日です。私たちの救い主であるイエス・キリストが十字架に架けられて死んだ後、三日目によみがえったイースターから数えて50日目に当たる今日、昇天前にイエスが約束された聖霊が降り、多くの人々が救われ、教会が誕生した日だからです。ペンテコステのもともとの意味は単純に50番目という意味です。しかし、イスラエルの歴史を振り返って見ると、この50番目には興味深い意味があります。モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された出来事―いわゆる出エジプトの出来事ですね―そのきっかけは過越しです。エジプト中の初子を殺すため主の使いがエジプト中を巡り歩いた時、子羊の血が塗られたイスラエル人の家は過越して中に入らなかったわけです。それでイスラエル人の初子は一人も殺されることなく、エジプトの初子だけが殺されました。この出来事によってファラオは主なる神を恐れ、イスラエルを解放したわけです。この出来事を記念して祝われたのが過越しの祭りです。これは救いの日であり現代でもユダヤ人にとって最大の祭りです。この過越しの祭りは「種なしパンの祭り」とも呼ばれ7日間続きますが、祭り期間中の安息日の翌日から50日目が7週の祭りと言われ、やはりユダヤ人の大切な祭りになっています。これは「刈入れの祭り」とか「初穂の祭り」とも呼ばれ、収穫した作物の初穂を主に献げる感謝の祭りです。約束の地に導き入れられ、安息を与えられた後に、その感謝を表す祭りだからです。新約聖書に出て来るペンテコステはこの日を指しています。教会は救われた者たちが一つに集められて形作られます。クリスチャンにとって教会は、神によって遣わされ、置かれ、結び合わされた所、まさにこの世における自分の居場所です。その教会が世界で最初に誕生した日、それがペンテコステです。この日誕生したエルサレム教会はこの後、全世界に生み出されてゆくキリストの教会の初穂です。初穂の祭りを祝う日に初穂としての教会が誕生するというのは、なかなかに憎い演出です。神様やるなといった感じがします。さらに50日目ということに注目すると、出エジプトの日から数えて50日目にあたる日は、イスラエルにとってとても重要なことが起きた日でもあります。それはシナイ山で十戒に代表される律法を授けられ、神の民として契約を結んだ日であるからです。この日にイスラエルの民は石の板に書き記された律法によって正式に神の民となったのです。そして新約聖書の50日目、ペンテコステは、聖霊によって新しい神の律法が人の心の板に書き記され、新しい神の民が生まれたのです。エレミヤ書に主が人々の心に新しい律法を書き記すとの約束があります。エレミヤ31:31~33「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」パウロはそれを受けてコリント教会の存在がその証拠であり、神の御霊によってそれがなされると言っています。Ⅱコリント3:3「生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記された」。救われる者の数が一気に増え、教会が誕生する。そのようにペンテコステはとても重要な日であるわけです。では、ペンテコステの日に起きたことを詳しく見てゆきましょう。ペンテコステの日、弟子たちはある家に集まっていました。一説にはマルコの母の家だったとも言われています。この家はたびたび弟子たちの集まりに使われていたようで、ペテロがヘロデの捕らえられた時も弟子たちが集まって祈っていたのはこの家でした。イエスが昇天してから約束の聖霊が降るまで、弟子たちは毎日集まって祈っていたと思われます。イエスの昇天から10日目、五旬節の日の朝を迎えました。いつものように弟子たちが集まり祈っていると、異変が起こりました。「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。」(2:2~3)まず、激しい風が吹いた時のような大きな物音が家中に響き渡りました。この音は当然ながら外にも響き渡り、多くの人々を驚かせ、何事が起きたのかと思わせました。人々の注意を引き付ける役割を果たしたのです(2:6)。次に具体的にはどんなものなのかははっきりわかりませんが、炎のような舌が分かれて現れ、弟子たち一人ひとりの上にとどまりました。火のようなものが天から降って来て、それが分かれて舌のようになり弟子たち一人一人の上にとどまったということでしょうか。これは弟子たち一人一人に何か不思議なことが起こっているということを明白に示すためのもののように思います。火は神の臨在やさばきと結びついていますし、黙示録では聖霊が火で象徴されてもいます。黙示録4:5「御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。」舌の形を取ったのは、この後弟子たちが外国のことばで語ることと関係しているのでしょう。これから起こる不思議なことは、神の聖霊の働きによることを人々に示すためだったと思われます。天から降った聖霊に満たされた弟子たちは、集まって来た人々を前にして外国のことばで話し始めました。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた(2:4)。」ペンテコステの日に行われた初穂の祭りはユダヤ人にとって大切な3大祭りの一つですから、大勢の巡礼者がエルサレムに来ていました。彼らは普段は外国に住んでいて、ヘブル語ではなくその外国のことばを話していました。そういう巡礼者たちが、普段自分が使っている外国語を弟子たちが語るのを目にしたのです。しかもその外国語は一つ二つではありませんでした。9~11節にリストが載っています。それだけで15の言語になります。このリストはエルサレムを中心に東に位置する地域から始まり、北に行き、南に下がり西に行く形を取っています。エルサレムを取り囲んでぐるっと一周している形です。つまりそれは当時知られている世界のすべてをあらわしているのです。弟子たちが外国語で語っていたのは神のなさった大きなみわざでした。「あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」(2:11)と人々が言っていることからわかります。具体的な内容は14節以下のペテロの説教を見ればわかります。今起こっていることは旧約聖書ヨエル書が預言した聖霊降臨の結果であること、それは十字架に架けられて死んだイエスが復活して天に上り、父なる神から聖霊を受け、その聖霊を注いでいること、そのことによってイエスこそ救い主であり主であることが証明されたこと、そしてユダヤ人たちはこのイエスを十字架につけてしまったことです。目の前で起こっている不思議なことは聖霊が起こしているのです。そしてその聖霊を降臨させたのは復活によって救い主であることが証明されたイエスです。しかし、そのイエスを拒絶して十字架につけたのは自分たちです。その事実を否定できない形で突き付けられ、人々は悔い改めイエスを信じるように促されたのです。その結果、イエスを信じてバプテスマを受けた人々が3000人も起こされ、最初の教会が誕生したのです(2:41)。使徒の働きの1章では弟子の数は120人ほどですから、一気に25倍に増えたということになります。そしてこの日以降、毎日救われる者が起こされ、美しの門での出来事の直後(4:4)には男の数だけで5000人、女と子どもを含めればゆうに1万人を超える教会になって行ったのです。ペンテコステの日に誕生した教会がどんな教会だったか、どんなことをしていたかは2:42を見ればわかります。「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」教会はここにあげられている4つのことを熱心に心合わせて実行していたのです。使徒たちの教え―これは聖書に基づくイエスの教えを意味します―に従うこと、神の家族として互いに助け合い、様々なものや物事を分かち合うこと、聖餐式を行って皆キリストにあって一つであることを覚えること、お互いのことを含めて心を合わせて祈り合うこと、この4つのことを行っていたのです。ギリシア語原文では、「ずっと4つのことに固執していた」という言い方がされています。44節以下は42節の補足と言えるでしょう。そこで目につくのは「一つである」ということです。「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」ユダヤ人であるからと言っても、皆が同じように考えたり行動したりするわけではないでしょう。いろんな違いがあったはずです。考え方の違う人、性格の合わない人、好みの違う人、身分や立場の違いも含めれば、その違いはかなりのものになるはずです。それでもここに書かれてあるように、それらの違いを超えて一つになれたのは、同じ一つの聖霊によって導かれ、救われ、同じ教会の中に置かれたからです。その原理、原則は今も変わりません。私たちも同じ一つの聖霊によって導かれ、キリストと出会い、キリストを信じるように促され、救われて、この教会に置かれました。同じように導かれた兄弟姉妹と、キリストにあって組み合わされ、結び合わされ、一つの教会を建て上げているのです。私たちの内に住まわれる一つの聖霊によって、それぞれに与えられている独自の賜物を用いることで、教会を建て上げることになるのです。交読文で読んだⅠコリント12章に書かれてある通りです。この春以降、新型コロナウィルス感染症の影響で一緒に集まって礼拝することができなくなりました。それは私たちにとってこれまで経験したことのない事態で、とても苦しい時でした。皆と一緒に教会で礼拝を献げられるということが、どれほど私たちにとって喜ばしいことで、神の恵みであるか、ということを深く味わわされた時だったのではないかと思います。クリスチャン、教会、礼拝、これらについて改めて問い直すということにおいて、今回の新型コロナウィルス感染症による事態は、それなりの意味を持っていたように思います。緊急事態宣言が全国で解除され、私たちの教会も来週から一堂に会しての礼拝を再開します。再開される礼拝への皆さんの思いはどんなでしょうか。聖霊によって一つとされた私たちが、一つ心で一緒に礼拝を献げる。当たり前だと思っていたことが、決して当たり前ではなく、私たちが一つになって礼拝することが、特別の神の恵みであったことを意識しながら、来週から礼拝を献げられたなら幸いだと思います。
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