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「目覚めている」とはどういうことなのでしょうか?戦後80年に当たる今年、広島教区の8月5日のミサで菊地枢機卿様が仰ったのは「記憶すること」の大切さです。過去の教訓をしっかり記憶して未来に伝えていくことです。私たちはイエス様が十字架にかかって復活した記憶を毎週ミサで記念しています。イエス様から未来へ歩む力をいただいて、個人の記憶にとどまらず人類全体の過失を記憶して未来に繋いでいけるよう、祈りを捧げましょう。
菊地枢機卿様のお説教は以下から視聴できます。
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
32「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
35腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
今日の福音は、主人がいつ帰ってきてもいいように灯火をともし、腰に帯を締め、そして目覚めていなさいということですね。主人が帰ってくる。これは直接的には、やはりイエス様が再臨される世の終わりに、再臨、栄光のうちに再臨されるということを語っているのであろうと思われますけれども、私たちが目を覚ましていて、それがいいものであれ、悪いものであれ、私たちに何か来ることに対してしっかり用意をしていなさいということですね。
それはやはり現代的に言うならば、いつ災害が来るかわからないという、昨日の夜からですかね、大雨警報ですから、何か寝ているときに突然スマホが鳴って、何か緊急避難情報とかが流れてきたり、いつ確かに来るかもしれないですし。そして私たちはやはりこの平和旬間、過去の戦争や原爆の悲劇を思い起こして、平和を改めて決意する、そういう時でもあると思います。
目覚めていないで突然やってくる悲劇に巻き込まれるというのはどういうことなのか。それはやはりこの用意をしていないとか、あるいは主人が遅れると思って勝手に何かやっているとか、そのように私たちがならないようにということですね。目覚めていること、それは本当にどういうことなのか。
改めて、今、私がこの広島教区に来てから、やはりこの原爆と原爆の被害ということを広島教区全体としてしっかり受け止めて、それを心に刻んで生きようとしている。特に今年は戦後80年なので、そのような思いを強くする。そこに私もいられるということは非常に大きな恵みだというふうに思います。
結局どういうことなのか。
それは8月5日でしたか、最後の最後に菊地枢機卿が締めのミサをされて、その中で強調されていたことは、記憶ということなんですね。過去の記憶を私たちは心に刻まなきゃならないということなんですね。それは当然、一人一人、自分の記憶、過去の記憶ということもありますが、私たちの記憶をやはり心に刻んで忘れないようにしなきゃならないということですね。
それがもう戦後80年ですから、もう新聞でもテレビでもネットでもそのような記事がいっぱい出てきますが、過去の記憶を、既存の記憶を心に刻むということがどれほど大事なことなのかということですね。自分自身の記憶としたら、既にこの中で被爆体験とか戦争体験、第2次世界大戦の実際の記憶のある方はおられないと思いますけれども、それにしても私たちはやはり私たちの記憶をいかに保持していくか、それが大事だと思います。
その記憶は何のために必要なのかというと、未来に向かうためにですね、過去のことであれが良かったかなとか、悪かったなとかという、ただ思い起こすための記憶ではなくて、記憶を持って生きるということは、未来に対する責任を持って私たちが生きていくというですね、そこにつながる。
結局、目を覚ましていくとか、用意していくというのはどういうことか。過去を教訓をしっかり記憶して、それを未来に向かって次の世代、次の世代に向かって責任ある未来を築いていくというですね。
私たちはやはり時間的な存在ですから、過去とつながって未来に生きていけるか、それが一番の基本じゃないかというふうに思います。
で、過去を忘れたら未来も忘れる。結局、今のことに精一杯になってしまって、何が来ても突然のパニックになってしまう危険があるということですね。
漢字というのは面白いですけれども、あの「貪欲」という漢字があって。むさぼるという事なんですけれども、「今」と書いて「貝」と書くんですよね。
むさぼるという字は、貝というのは食べ物でもあり、貨幣でもある。お金の象徴なんですよね。結局、今お金を稼ぐとか、今これを食べるとか、そういうことにとらわれていると貪欲になってしまって、結局突然の破壊に巻き込まれてしまう可能性があるということですね。
いろいろ漢字は面白いんですよ。いろいろな光いっぱいあるんですけれども、でもやはり今のことしか考えなければ、私たちは破壊が待っているということですね。一時期、金融資本主義のハゲタカファンドとか、何かいろいろ金儲け主義の人たちがモットーがはっきりしていて、彼らの考えは「今だけ、自分だけ、お金だけ」。今だけ、自分だけ、お金だけが儲かればいいと。貪欲の一番の典型的なものですが、結局、今と自分とお金だけのことを考えたら貪欲になって、結局私たちが滅びの世界に向かってしまう。
私たちは何を大事にするかといったら、これまた面白いんですけど、貧困、「貧しい」という字が、これも面白い漢字なんですけど、「分ける」って書いて「貝」と書くんですよね。
だから、貧しさの本質は何かといったら、お金や食べ物を分かち合うわけですね。でも、分かち合いの中でこそ、私たちに大きな恵みと力が与えられる。分かち合うということは、過去の記憶を分かち合うということと、未来に向かって私たちはこの平和の恵み、進歩の恵みを分かち合っていけるかどうかということ、それが私たちにとって最も大切なことだと言えるでしょう。
実際のところ、私たちは日曜日のミサで何をしているかとか記憶を記念しているんですが、何の記憶かと言ったらイエス様が十字架にかかって復活した記憶を毎週毎週記念している。それは当然、単に過去の記憶を思い起こして懐かしがっているわけではなくて、今生きる力をいただいて、未来に向かって生きていく、まさしく未来の、もちろんそこまであんまり日頃考えないですけど、終末に向かったイエス様の再臨上の完成に向かって、私たちが歩む未来への力をいただくために、こうやって毎週毎週わざわざ集まっているわけですよね。私たちがどれだけ過去の、一つは、やっぱり喜びや恵みやということも記憶の中に残さなければならないし、もう一つは、やはり過去の個人的なことも含んで、失敗とか罪とか、あるいは人類全体の過失とかですね、それも原爆のことも含まれているし、今の核兵器の開発も含まれていると思いますけれども、それらすべてをやはり教訓として未来につないでいけるかどうかということだと思いますね。
8月の5日の集まりにカテドラルで出て、実はもういろいろなことがいっぱいあって、ちょっともう、話せないんですけど、やっぱり一つ、被団協の方々、ノーベル平和賞を取った被団協の方々も参加されていて、カトリック教会として被団協の方々にお祝いの言葉とそれを述べて、それで一緒に祈りに被団協の方々も参加していただいたんですけど、やはり彼らは本当に素晴らしいと思います。
やっぱり過去の被爆するという悲惨な経験を単に過去にあった嫌なことということで記憶を封印するのではなくて、その記憶があるからこそ、未来に向かって平和を築いていこうとする、前向きに生きているということなんですよね。それがまさしく私たちが目覚めて用意して、灯火を灯していくということの一つの実例で、彼らがノーベル平和賞をとったことは、本当に私たち日本人にとっては非常に大きな励みになりますし、一つの希望のしるしだと思いますね。
私たち一人一人ができることを、それは本当に小さなことしかもちろんないわけですけれども、私たち一人一人が過去の経験、良いこと、悪いこと、個人的なことも含めて、その記憶を未来に生かしていくために与えられているというふうに考えた時に、それは本当に意味がある記憶だと思いますね。
それを祈念しながら、私たちが未来に向かって小さな小さな祈りや小さな行いや小さな捧げでしょうけれども、次の世代に向かっての私たちは責任がある若い世代に向かってということですね。向かって私たちが何を残していけるのか、何を残していこうとするのかということですよね。
それを改めて思い起こしながら、私たちは、希望ある未来にこの平和を築いていくという使命と希望を持って歩んでいけるように、改めて共に祈りを捧げたいと思います。
「目覚めている」とはどういうことなのでしょうか?戦後80年に当たる今年、広島教区の8月5日のミサで菊地枢機卿様が仰ったのは「記憶すること」の大切さです。過去の教訓をしっかり記憶して未来に伝えていくことです。私たちはイエス様が十字架にかかって復活した記憶を毎週ミサで記念しています。イエス様から未来へ歩む力をいただいて、個人の記憶にとどまらず人類全体の過失を記憶して未来に繋いでいけるよう、祈りを捧げましょう。
菊地枢機卿様のお説教は以下から視聴できます。
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
32「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
35腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
今日の福音は、主人がいつ帰ってきてもいいように灯火をともし、腰に帯を締め、そして目覚めていなさいということですね。主人が帰ってくる。これは直接的には、やはりイエス様が再臨される世の終わりに、再臨、栄光のうちに再臨されるということを語っているのであろうと思われますけれども、私たちが目を覚ましていて、それがいいものであれ、悪いものであれ、私たちに何か来ることに対してしっかり用意をしていなさいということですね。
それはやはり現代的に言うならば、いつ災害が来るかわからないという、昨日の夜からですかね、大雨警報ですから、何か寝ているときに突然スマホが鳴って、何か緊急避難情報とかが流れてきたり、いつ確かに来るかもしれないですし。そして私たちはやはりこの平和旬間、過去の戦争や原爆の悲劇を思い起こして、平和を改めて決意する、そういう時でもあると思います。
目覚めていないで突然やってくる悲劇に巻き込まれるというのはどういうことなのか。それはやはりこの用意をしていないとか、あるいは主人が遅れると思って勝手に何かやっているとか、そのように私たちがならないようにということですね。目覚めていること、それは本当にどういうことなのか。
改めて、今、私がこの広島教区に来てから、やはりこの原爆と原爆の被害ということを広島教区全体としてしっかり受け止めて、それを心に刻んで生きようとしている。特に今年は戦後80年なので、そのような思いを強くする。そこに私もいられるということは非常に大きな恵みだというふうに思います。
結局どういうことなのか。
それは8月5日でしたか、最後の最後に菊地枢機卿が締めのミサをされて、その中で強調されていたことは、記憶ということなんですね。過去の記憶を私たちは心に刻まなきゃならないということなんですね。それは当然、一人一人、自分の記憶、過去の記憶ということもありますが、私たちの記憶をやはり心に刻んで忘れないようにしなきゃならないということですね。
それがもう戦後80年ですから、もう新聞でもテレビでもネットでもそのような記事がいっぱい出てきますが、過去の記憶を、既存の記憶を心に刻むということがどれほど大事なことなのかということですね。自分自身の記憶としたら、既にこの中で被爆体験とか戦争体験、第2次世界大戦の実際の記憶のある方はおられないと思いますけれども、それにしても私たちはやはり私たちの記憶をいかに保持していくか、それが大事だと思います。
その記憶は何のために必要なのかというと、未来に向かうためにですね、過去のことであれが良かったかなとか、悪かったなとかという、ただ思い起こすための記憶ではなくて、記憶を持って生きるということは、未来に対する責任を持って私たちが生きていくというですね、そこにつながる。
結局、目を覚ましていくとか、用意していくというのはどういうことか。過去を教訓をしっかり記憶して、それを未来に向かって次の世代、次の世代に向かって責任ある未来を築いていくというですね。
私たちはやはり時間的な存在ですから、過去とつながって未来に生きていけるか、それが一番の基本じゃないかというふうに思います。
で、過去を忘れたら未来も忘れる。結局、今のことに精一杯になってしまって、何が来ても突然のパニックになってしまう危険があるということですね。
漢字というのは面白いですけれども、あの「貪欲」という漢字があって。むさぼるという事なんですけれども、「今」と書いて「貝」と書くんですよね。
むさぼるという字は、貝というのは食べ物でもあり、貨幣でもある。お金の象徴なんですよね。結局、今お金を稼ぐとか、今これを食べるとか、そういうことにとらわれていると貪欲になってしまって、結局突然の破壊に巻き込まれてしまう可能性があるということですね。
いろいろ漢字は面白いんですよ。いろいろな光いっぱいあるんですけれども、でもやはり今のことしか考えなければ、私たちは破壊が待っているということですね。一時期、金融資本主義のハゲタカファンドとか、何かいろいろ金儲け主義の人たちがモットーがはっきりしていて、彼らの考えは「今だけ、自分だけ、お金だけ」。今だけ、自分だけ、お金だけが儲かればいいと。貪欲の一番の典型的なものですが、結局、今と自分とお金だけのことを考えたら貪欲になって、結局私たちが滅びの世界に向かってしまう。
私たちは何を大事にするかといったら、これまた面白いんですけど、貧困、「貧しい」という字が、これも面白い漢字なんですけど、「分ける」って書いて「貝」と書くんですよね。
だから、貧しさの本質は何かといったら、お金や食べ物を分かち合うわけですね。でも、分かち合いの中でこそ、私たちに大きな恵みと力が与えられる。分かち合うということは、過去の記憶を分かち合うということと、未来に向かって私たちはこの平和の恵み、進歩の恵みを分かち合っていけるかどうかということ、それが私たちにとって最も大切なことだと言えるでしょう。
実際のところ、私たちは日曜日のミサで何をしているかとか記憶を記念しているんですが、何の記憶かと言ったらイエス様が十字架にかかって復活した記憶を毎週毎週記念している。それは当然、単に過去の記憶を思い起こして懐かしがっているわけではなくて、今生きる力をいただいて、未来に向かって生きていく、まさしく未来の、もちろんそこまであんまり日頃考えないですけど、終末に向かったイエス様の再臨上の完成に向かって、私たちが歩む未来への力をいただくために、こうやって毎週毎週わざわざ集まっているわけですよね。私たちがどれだけ過去の、一つは、やっぱり喜びや恵みやということも記憶の中に残さなければならないし、もう一つは、やはり過去の個人的なことも含んで、失敗とか罪とか、あるいは人類全体の過失とかですね、それも原爆のことも含まれているし、今の核兵器の開発も含まれていると思いますけれども、それらすべてをやはり教訓として未来につないでいけるかどうかということだと思いますね。
8月の5日の集まりにカテドラルで出て、実はもういろいろなことがいっぱいあって、ちょっともう、話せないんですけど、やっぱり一つ、被団協の方々、ノーベル平和賞を取った被団協の方々も参加されていて、カトリック教会として被団協の方々にお祝いの言葉とそれを述べて、それで一緒に祈りに被団協の方々も参加していただいたんですけど、やはり彼らは本当に素晴らしいと思います。
やっぱり過去の被爆するという悲惨な経験を単に過去にあった嫌なことということで記憶を封印するのではなくて、その記憶があるからこそ、未来に向かって平和を築いていこうとする、前向きに生きているということなんですよね。それがまさしく私たちが目覚めて用意して、灯火を灯していくということの一つの実例で、彼らがノーベル平和賞をとったことは、本当に私たち日本人にとっては非常に大きな励みになりますし、一つの希望のしるしだと思いますね。
私たち一人一人ができることを、それは本当に小さなことしかもちろんないわけですけれども、私たち一人一人が過去の経験、良いこと、悪いこと、個人的なことも含めて、その記憶を未来に生かしていくために与えられているというふうに考えた時に、それは本当に意味がある記憶だと思いますね。
それを祈念しながら、私たちが未来に向かって小さな小さな祈りや小さな行いや小さな捧げでしょうけれども、次の世代に向かっての私たちは責任がある若い世代に向かってということですね。向かって私たちが何を残していけるのか、何を残していこうとするのかということですよね。
それを改めて思い起こしながら、私たちは、希望ある未来にこの平和を築いていくという使命と希望を持って歩んでいけるように、改めて共に祈りを捧げたいと思います。