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1980年に生まれた私の次女は、生後まもなく白色便と黄疸が続き、大学病院で希少難病の胆道閉鎖症(たんどうへいさしよう)と診断された。
担当の若い小児科医は「この子は半年で死にます」と、当時の医学書に書かれたとおりのことだけを言って、その病気のことについて他の医療機関などの情報は全く教えてもらえなかった。
ワラにもすがる思いで近くの知り合いの医師に相談しところ、世界ではじめてその病気の手術を手がけた東北の大学病院のK先生を紹介され、そこで先生の診断を受けることができた。
そのとき先生から、
「なぜ和歌山県からこんなに遠い東北の地まで来たの?あなたの家の近くの県のこども病院ではすでに30件以上の手術実績があり、成績もいいようですよ」と聞かされた。
私は胆道閉鎖症を積極的に治療している病院は日本ではここしかないと思って来たのに、なぜ、初診の大学病院でそのことを教えてもらえなかったのか、本当に残念でならなかった。
結局、病名は「先天性胆道閉鎖症」で、助教授のR先生が執刀医となり、K方式と呼ばれる肝臓と十二指腸を直接縫合する手術を1年半の入院期間中に3回受け、一時は「この子はもう心配はいらない」と言われるほど回復した。
*
その後、近県のこども病院に転院することとなった。
当時、東北の大学病院では付き添いは許されていたが今度は完全看護となり、しかも週に一度だけガラス越しの面会を許された。というのもその後、水疱瘡に感染した娘は、とりわけ肝臓を痛める全身感染のため、長期の隔離状態にされていたのだ。
娘が2歳を迎えたある日の面会の時、ガラスの向こうで看護師さんに食事をさせてもらったあと、髪の毛を梳(す)いてもらっていた。
髪を湯で湿らせてくれているか、ベビーオイルのようなものを櫛につけてくれていると思っていたのだが、ガラス越しに見える娘の頭は髪を梳かれるたびに後ろにのけぞり、ある時はブチブチッと、1年半寝たままだった縮れ毛の髪がちぎれているのではと思えるほど頭を前後にしゃくっているのである。
私たちは1週間に1度しか顔を見ることができないのに─。娘もそのときだけしか両親の顔を見ることができないのに─。しかも毎日毎日にがい薬と痛い注射の連続なのに─。
結局、そのことがきっかけで退院させることになった。
*
わが子が闘病している間に知ったことは、入院している子どもたちの病気は多岐にわたり、如何に難病で苦しむ家族が多いことかということ。さらには学閥などによって開示されない難病医療に関する情報、福祉制度の周知の未熟さ、専門医療機関の少なさ、そして何よりも患者やその家族が孤独な闘病をしていることなど、多くのことを学ぶことができた。
このような経験を踏まえ、私は患者同士が情報を共有することの大切さや、同病の患者同士が安心して自分の苦しみや悩みを話すことができる患者会の必要性を強く感じた。そして当事者が声を上げ、医療や福祉の向上を願い、行政に訴えていくことの大切さも同時に感じ、平成元年(1989年)和歌山県難病団体連絡協議会を結成するに至ったのだ。
こども病院を退院後、できるだけ入院を避け、通院を中心として県内外の病院を転々とした。娘は薬を飲むのもいやがらず、週二回のアルブミンの外来注射も全くいやがらず、家では「ほいくちょにいくの」と、腹水のたまった大きなお腹でホックができないお姉ちゃんのスモックを着て、親の心配をよそに明るく走り回った。
*
生後まもなく「この子は半年で死にます」といわれた娘は、5年と1ヶ月と1週間という命の日々を重ね、その年の秋、「みずをのみたい」といって肝硬変で息をひきとった。
私は娘の小さな棺に次のような文を収めた。
五さいまでよくがんばったね。
大きな手術はこわかったね。
ほんとうはにがい薬はいやだったよね。
いたい注射のほうがもっといやだったよね。
でもいつも明るくしてくれたね。ありがとう。
えりのおなかにはおへそが二つあって、あとであけたおへそはいつもいたかったし、かゆかったね。
かいていっぱい血が出るときもあったから、
もう一つのおへそはいやだったよね。
それでも明るくしてくれて、ありがとう。
でもほんとうに悲しそうな顔をしたときもありましたね。
かみの毛がちぎられるほど、くしでとかれたときです。
お父さんたちもその時はすぐにでもつれて、
おうちへ帰りたいと思いました。
えりが病気になったことで、お父さんもたくさん勉強しました。
これはえりの残した財産でもあり、
えりの生きたあかしとして、むだにしないようにしますからね。
えり、ゆっくりあそぶんだよ。
そしてときどき、下をながめて、みんなをまもってください。
ほんとうによくがんばったね。
合掌
・・・・・・・・・・・・・・・
7月からのシーズン3の読み聞かせ法話の本は
2009年に出版した「田舎坊主の愛別離苦」です。
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田舎坊主シリーズ
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にて販売されています
1980年に生まれた私の次女は、生後まもなく白色便と黄疸が続き、大学病院で希少難病の胆道閉鎖症(たんどうへいさしよう)と診断された。
担当の若い小児科医は「この子は半年で死にます」と、当時の医学書に書かれたとおりのことだけを言って、その病気のことについて他の医療機関などの情報は全く教えてもらえなかった。
ワラにもすがる思いで近くの知り合いの医師に相談しところ、世界ではじめてその病気の手術を手がけた東北の大学病院のK先生を紹介され、そこで先生の診断を受けることができた。
そのとき先生から、
「なぜ和歌山県からこんなに遠い東北の地まで来たの?あなたの家の近くの県のこども病院ではすでに30件以上の手術実績があり、成績もいいようですよ」と聞かされた。
私は胆道閉鎖症を積極的に治療している病院は日本ではここしかないと思って来たのに、なぜ、初診の大学病院でそのことを教えてもらえなかったのか、本当に残念でならなかった。
結局、病名は「先天性胆道閉鎖症」で、助教授のR先生が執刀医となり、K方式と呼ばれる肝臓と十二指腸を直接縫合する手術を1年半の入院期間中に3回受け、一時は「この子はもう心配はいらない」と言われるほど回復した。
*
その後、近県のこども病院に転院することとなった。
当時、東北の大学病院では付き添いは許されていたが今度は完全看護となり、しかも週に一度だけガラス越しの面会を許された。というのもその後、水疱瘡に感染した娘は、とりわけ肝臓を痛める全身感染のため、長期の隔離状態にされていたのだ。
娘が2歳を迎えたある日の面会の時、ガラスの向こうで看護師さんに食事をさせてもらったあと、髪の毛を梳(す)いてもらっていた。
髪を湯で湿らせてくれているか、ベビーオイルのようなものを櫛につけてくれていると思っていたのだが、ガラス越しに見える娘の頭は髪を梳かれるたびに後ろにのけぞり、ある時はブチブチッと、1年半寝たままだった縮れ毛の髪がちぎれているのではと思えるほど頭を前後にしゃくっているのである。
私たちは1週間に1度しか顔を見ることができないのに─。娘もそのときだけしか両親の顔を見ることができないのに─。しかも毎日毎日にがい薬と痛い注射の連続なのに─。
結局、そのことがきっかけで退院させることになった。
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わが子が闘病している間に知ったことは、入院している子どもたちの病気は多岐にわたり、如何に難病で苦しむ家族が多いことかということ。さらには学閥などによって開示されない難病医療に関する情報、福祉制度の周知の未熟さ、専門医療機関の少なさ、そして何よりも患者やその家族が孤独な闘病をしていることなど、多くのことを学ぶことができた。
このような経験を踏まえ、私は患者同士が情報を共有することの大切さや、同病の患者同士が安心して自分の苦しみや悩みを話すことができる患者会の必要性を強く感じた。そして当事者が声を上げ、医療や福祉の向上を願い、行政に訴えていくことの大切さも同時に感じ、平成元年(1989年)和歌山県難病団体連絡協議会を結成するに至ったのだ。
こども病院を退院後、できるだけ入院を避け、通院を中心として県内外の病院を転々とした。娘は薬を飲むのもいやがらず、週二回のアルブミンの外来注射も全くいやがらず、家では「ほいくちょにいくの」と、腹水のたまった大きなお腹でホックができないお姉ちゃんのスモックを着て、親の心配をよそに明るく走り回った。
*
生後まもなく「この子は半年で死にます」といわれた娘は、5年と1ヶ月と1週間という命の日々を重ね、その年の秋、「みずをのみたい」といって肝硬変で息をひきとった。
私は娘の小さな棺に次のような文を収めた。
五さいまでよくがんばったね。
大きな手術はこわかったね。
ほんとうはにがい薬はいやだったよね。
いたい注射のほうがもっといやだったよね。
でもいつも明るくしてくれたね。ありがとう。
えりのおなかにはおへそが二つあって、あとであけたおへそはいつもいたかったし、かゆかったね。
かいていっぱい血が出るときもあったから、
もう一つのおへそはいやだったよね。
それでも明るくしてくれて、ありがとう。
でもほんとうに悲しそうな顔をしたときもありましたね。
かみの毛がちぎられるほど、くしでとかれたときです。
お父さんたちもその時はすぐにでもつれて、
おうちへ帰りたいと思いました。
えりが病気になったことで、お父さんもたくさん勉強しました。
これはえりの残した財産でもあり、
えりの生きたあかしとして、むだにしないようにしますからね。
えり、ゆっくりあそぶんだよ。
そしてときどき、下をながめて、みんなをまもってください。
ほんとうによくがんばったね。
合掌
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2009年に出版した「田舎坊主の愛別離苦」です。
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