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ある檀家さんのご先祖の月命日にお参りしたとき、当家の奥さんから突然尋ねられた。
「院家はん、私の実家の母が去年の年の暮れ12月31日に死んだんですわ。2月3日に町内会の旅行で出雲大社へ行くんやけど、行ってもええかなあ。仕上げ(忌み明け)は1月31日に済ませるんやけど49日経ってないし、どないしようかなあ思うてますねん。旅行行ってもええやろか?」
奥さんは続けて、「『行けるとき行かな。行こう行こう。気になるんやったら出雲大社の鳥居をくぐらんだらええがな。』って、友だちも言うてくれるんやけど。ほんまに迷うてますねん。院家はん、どないしたらよろしやろ?」と聞いてくる。
当地では、死人を出したあと49日の仕上げの法事を済ませるか、または百日忌を済ませるまでは、神社に参ってはいけないという迷信というか風習があるのだ。
*
余談だが、49日の仕上げ法事が三ヶ月に渡ってもいけないという風習もある。これは、始終苦が身に付く(四十九が三に月)という単なる語呂合わせから生まれた迷信だ。
そしてもう一つの理由は、かつて「買い物帳」を使った「盆暮れ」年2回だけの支払い商習慣があった頃、葬式費用の種々の支払いに限っては盆暮れまで間を置かず、3ヶ月以内に支払いを済ませたことから、49日の仕上げ法事までもが3ヶ月に渡ってはいけないということになったのだ。
ちなみにこの葬式費用の支払い習慣は今でも「即日現金支払い」というかたちで残っていて、当地ではほとんどの檀家がこの風習を守っているようだ。
月末に亡くなった人は必ず49日目は3ヶ月にかかるため、私は、「49日お祀りしてあげたいと思うなら、亡くなっていく人に『月末に死んだらあかんで、もうちょっと我慢して月初めに死ぬか、又は、ちょっと急いで月の中ごろまでに逝かなあかんで』と段取りを説明しとかなあかんがな」と、3ヶ月に渡る渡らないで迷うことのないよう、折に触れて笑い話にして話してる。
*
さて出雲大社方面町内会旅行の話にもどるが、死人を出した家の人が一定期間神社にお参りできないというのは、明治初年の「廃仏毀釈(はいぶつきしやく)」以降の新しい風習だ。それ以前は神仏習合型の「仲良き」関係で全くそんな風習はなく、これ以降、「神」の側からは、死人を出した家はその家人を含めて「穢れ(けがれ)」ているとして、「神」に参ることを厳しく拒否したのだ。
そして、それまで神も仏も共にお祀りしてきた庶民大衆は、「神」に嫌われたくないと思い、この後も共に祀りたいとの思いから、神社に参ることを遠慮しただけなのだ。これゆえ、死の宣告を受けた後、葬儀の支度の第一番に神棚に白紙を貼り付け、「神さま、これからのことは暫く見ないことにしてね」と気をつかって、目隠しをしている。
しかし本来、神道にも「死」を認めなければならない現実はあるし、死に際したセレモニーも厳然として存在するのは確かなことなのだ。
ところがそこはうまくできていて、神道での「死」は「格が上がる」そうだ。
本来、決して避けて通ることのできないことである「死」は、何ものも蔑視してはならないし、私は愛しい家族の死ほど多くのことを教えてくれる崇高な瞬間はないと思っている。
私はその奥さんに
「あんまり気にせんと行ったらええんとちがう、友だちも勧めてくれてるし、行けるとき行っとかな、後悔するよ。気になるんやったら鳥居くぐらんと、お尻を向けて、拍掌をしないで行ったらどう。それで納得するんやったら、その神様も大したことないんとちがう?」と答えておいた。
そして廃仏毀釈について少し触れて書いた私の既刊書『田舎坊主のぶつぶつ説法』を一冊売りつけて帰ってきた。
*
ところで日本では(日本だけではないが)かつて、死や血を穢れと捉えてきた歴史がある。しかもその死や血を扱う仕事を生業とする人たちをも「穢れ者」として差別してきた。同様に「月経(生理)」のある女性は穢れているとされ、ひいては女性そのものを差別してきた。
この流れから、国技である相撲の土俵に女性は上れなかったり、宗教においても修業の邪魔になるということで「女人禁制」などと女性差別を行ってきた。
これらのことは徐々に解放されてきているが、今でもこの田舎では生理中の女性が神社に参らない、参ってはならないという考え方が残っているのも事実だ。
永い歴史のなかで根付いてきた慣習は、その意味や経緯を知ると知らざるに関わらず、一朝一夕には変えがたいものだとつくづく思うのだ。
本来、人間には「浄(きよ)い」も「穢(けが)れ」もなく、ただただ尊い存在なのだ。
お釈迦さまは生後まもなく七歩歩んで「天上天下唯我独尊」と高らかに宣言された。
まさしく人間一人ひとりがかけがえもなく尊いものなのだ。この尊き人間が子孫継続の生理的機能充実の証として女性には生理があり、命の営みの終焉として「死」があるのだ。
極言すれば、女性の生理がなかったら、私たちが生きて感じる出産、発育、学問、結婚、家庭等々の幸せや感動はないだろうし、死がなければ感じ得ない「生きるありがたさ」「命の尊さ」「愛情の重み」「大切な人の存在」などという最も人間として豊かな部分を享受することはないだろう。
「死」は数え切れないほどの尊い教えを私たちに与えているのだ。その意味では、何ものも「死」や「女性」を差別的に扱うことは許されないし、ましてや宗教(者)がこれらに加担することは断じて許されるものではない。
*
ちなみに出雲大社は縁結びの神とか。嫁ぎ先の両親を送り、実家の母を送り、働き者のせがれはよき嫁をめとり、二人の可愛い孫はすくすく育っている。近くには実母を送ったことを知っていながら町内会の旅行に誘ってくれる良き友がいる。
これ以上の幸せはあるだろうか。
そう考えたとき、出雲大社の神前で「良き縁ありて今ある幸せ」を感謝しながら手を合わせても、「神」は決してお怒りにはならないだろう。神はそんなに度量は狭くないだろう。
母との「愛別離苦」は今を大切にし価値ある生き方を教えてくれた、最も貴重な経験だったのだ。
送った母はもちろんのこと、自分を取り巻く多くの人々に深い感謝の念をもち、今、生きているこの時期を大切に大切に生きていけば、それで充分でしょう。
「行ってらっしゃい、行ってらっしゃい、町内彼の旅行いってらっしゃい」
<最後に>
本書にはいくつかの諷誦文(ふじゅもん)を記していますが、かつてはほとんどの葬儀で、このような諷誦文が導師によって読まれました。
今、自宅ではなくセレモニーホールなどでの葬儀が増えてくると、葬儀自体が簡素化され、むしろ火葬の時間にあわせる必要に迫られ、以前の作法や儀式もできなくなってきました。そして諷誦文を読み上げるような葬儀はほとんどなくなりました。
諷誦文には故人の人となりや、業績、人徳などが読み込まれ、葬儀の風格のようなものを感じさせてくれると同時に、ご家族の感じ方とは違った故人に対する社会の視線から読み上げられることも多く、故人の新たな一面を知らしめるということで、ご家族から感謝されることも多々ありました。
やがて葬儀で諷誦文を読み上げることがなくなってしまうかも知れないという危惧を抱きながら、現在、私のお寺では院号戒名をつけられた場合、その説明を兼ねて本書に記したような短い文を添えてご遺族にお渡ししています。
読者の皆さまには、本書の拙い諷誦文や讃嘆文から故人の人柄をお読みいただければなによりです。
そして「いつまでもある」「いくつでもある」という存在(ぞんざい)な生き方を自ら戒めながら本書を閉じたいと思います。
本書は事実を基にしていますが、一部設定を変更しています。
本書に記した方々の御霊(みたま)に拙書を捧げるとともに、心からご冥福をお祈りいたします。
合掌
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7月からのシーズン3の読み聞かせ法話の本は
2009年に出版した「田舎坊主の愛別離苦」です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
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ある檀家さんのご先祖の月命日にお参りしたとき、当家の奥さんから突然尋ねられた。
「院家はん、私の実家の母が去年の年の暮れ12月31日に死んだんですわ。2月3日に町内会の旅行で出雲大社へ行くんやけど、行ってもええかなあ。仕上げ(忌み明け)は1月31日に済ませるんやけど49日経ってないし、どないしようかなあ思うてますねん。旅行行ってもええやろか?」
奥さんは続けて、「『行けるとき行かな。行こう行こう。気になるんやったら出雲大社の鳥居をくぐらんだらええがな。』って、友だちも言うてくれるんやけど。ほんまに迷うてますねん。院家はん、どないしたらよろしやろ?」と聞いてくる。
当地では、死人を出したあと49日の仕上げの法事を済ませるか、または百日忌を済ませるまでは、神社に参ってはいけないという迷信というか風習があるのだ。
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余談だが、49日の仕上げ法事が三ヶ月に渡ってもいけないという風習もある。これは、始終苦が身に付く(四十九が三に月)という単なる語呂合わせから生まれた迷信だ。
そしてもう一つの理由は、かつて「買い物帳」を使った「盆暮れ」年2回だけの支払い商習慣があった頃、葬式費用の種々の支払いに限っては盆暮れまで間を置かず、3ヶ月以内に支払いを済ませたことから、49日の仕上げ法事までもが3ヶ月に渡ってはいけないということになったのだ。
ちなみにこの葬式費用の支払い習慣は今でも「即日現金支払い」というかたちで残っていて、当地ではほとんどの檀家がこの風習を守っているようだ。
月末に亡くなった人は必ず49日目は3ヶ月にかかるため、私は、「49日お祀りしてあげたいと思うなら、亡くなっていく人に『月末に死んだらあかんで、もうちょっと我慢して月初めに死ぬか、又は、ちょっと急いで月の中ごろまでに逝かなあかんで』と段取りを説明しとかなあかんがな」と、3ヶ月に渡る渡らないで迷うことのないよう、折に触れて笑い話にして話してる。
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さて出雲大社方面町内会旅行の話にもどるが、死人を出した家の人が一定期間神社にお参りできないというのは、明治初年の「廃仏毀釈(はいぶつきしやく)」以降の新しい風習だ。それ以前は神仏習合型の「仲良き」関係で全くそんな風習はなく、これ以降、「神」の側からは、死人を出した家はその家人を含めて「穢れ(けがれ)」ているとして、「神」に参ることを厳しく拒否したのだ。
そして、それまで神も仏も共にお祀りしてきた庶民大衆は、「神」に嫌われたくないと思い、この後も共に祀りたいとの思いから、神社に参ることを遠慮しただけなのだ。これゆえ、死の宣告を受けた後、葬儀の支度の第一番に神棚に白紙を貼り付け、「神さま、これからのことは暫く見ないことにしてね」と気をつかって、目隠しをしている。
しかし本来、神道にも「死」を認めなければならない現実はあるし、死に際したセレモニーも厳然として存在するのは確かなことなのだ。
ところがそこはうまくできていて、神道での「死」は「格が上がる」そうだ。
本来、決して避けて通ることのできないことである「死」は、何ものも蔑視してはならないし、私は愛しい家族の死ほど多くのことを教えてくれる崇高な瞬間はないと思っている。
私はその奥さんに
「あんまり気にせんと行ったらええんとちがう、友だちも勧めてくれてるし、行けるとき行っとかな、後悔するよ。気になるんやったら鳥居くぐらんと、お尻を向けて、拍掌をしないで行ったらどう。それで納得するんやったら、その神様も大したことないんとちがう?」と答えておいた。
そして廃仏毀釈について少し触れて書いた私の既刊書『田舎坊主のぶつぶつ説法』を一冊売りつけて帰ってきた。
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ところで日本では(日本だけではないが)かつて、死や血を穢れと捉えてきた歴史がある。しかもその死や血を扱う仕事を生業とする人たちをも「穢れ者」として差別してきた。同様に「月経(生理)」のある女性は穢れているとされ、ひいては女性そのものを差別してきた。
この流れから、国技である相撲の土俵に女性は上れなかったり、宗教においても修業の邪魔になるということで「女人禁制」などと女性差別を行ってきた。
これらのことは徐々に解放されてきているが、今でもこの田舎では生理中の女性が神社に参らない、参ってはならないという考え方が残っているのも事実だ。
永い歴史のなかで根付いてきた慣習は、その意味や経緯を知ると知らざるに関わらず、一朝一夕には変えがたいものだとつくづく思うのだ。
本来、人間には「浄(きよ)い」も「穢(けが)れ」もなく、ただただ尊い存在なのだ。
お釈迦さまは生後まもなく七歩歩んで「天上天下唯我独尊」と高らかに宣言された。
まさしく人間一人ひとりがかけがえもなく尊いものなのだ。この尊き人間が子孫継続の生理的機能充実の証として女性には生理があり、命の営みの終焉として「死」があるのだ。
極言すれば、女性の生理がなかったら、私たちが生きて感じる出産、発育、学問、結婚、家庭等々の幸せや感動はないだろうし、死がなければ感じ得ない「生きるありがたさ」「命の尊さ」「愛情の重み」「大切な人の存在」などという最も人間として豊かな部分を享受することはないだろう。
「死」は数え切れないほどの尊い教えを私たちに与えているのだ。その意味では、何ものも「死」や「女性」を差別的に扱うことは許されないし、ましてや宗教(者)がこれらに加担することは断じて許されるものではない。
*
ちなみに出雲大社は縁結びの神とか。嫁ぎ先の両親を送り、実家の母を送り、働き者のせがれはよき嫁をめとり、二人の可愛い孫はすくすく育っている。近くには実母を送ったことを知っていながら町内会の旅行に誘ってくれる良き友がいる。
これ以上の幸せはあるだろうか。
そう考えたとき、出雲大社の神前で「良き縁ありて今ある幸せ」を感謝しながら手を合わせても、「神」は決してお怒りにはならないだろう。神はそんなに度量は狭くないだろう。
母との「愛別離苦」は今を大切にし価値ある生き方を教えてくれた、最も貴重な経験だったのだ。
送った母はもちろんのこと、自分を取り巻く多くの人々に深い感謝の念をもち、今、生きているこの時期を大切に大切に生きていけば、それで充分でしょう。
「行ってらっしゃい、行ってらっしゃい、町内彼の旅行いってらっしゃい」
<最後に>
本書にはいくつかの諷誦文(ふじゅもん)を記していますが、かつてはほとんどの葬儀で、このような諷誦文が導師によって読まれました。
今、自宅ではなくセレモニーホールなどでの葬儀が増えてくると、葬儀自体が簡素化され、むしろ火葬の時間にあわせる必要に迫られ、以前の作法や儀式もできなくなってきました。そして諷誦文を読み上げるような葬儀はほとんどなくなりました。
諷誦文には故人の人となりや、業績、人徳などが読み込まれ、葬儀の風格のようなものを感じさせてくれると同時に、ご家族の感じ方とは違った故人に対する社会の視線から読み上げられることも多く、故人の新たな一面を知らしめるということで、ご家族から感謝されることも多々ありました。
やがて葬儀で諷誦文を読み上げることがなくなってしまうかも知れないという危惧を抱きながら、現在、私のお寺では院号戒名をつけられた場合、その説明を兼ねて本書に記したような短い文を添えてご遺族にお渡ししています。
読者の皆さまには、本書の拙い諷誦文や讃嘆文から故人の人柄をお読みいただければなによりです。
そして「いつまでもある」「いくつでもある」という存在(ぞんざい)な生き方を自ら戒めながら本書を閉じたいと思います。
本書は事実を基にしていますが、一部設定を変更しています。
本書に記した方々の御霊(みたま)に拙書を捧げるとともに、心からご冥福をお祈りいたします。
合掌
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