田舎坊主の読み聞かせ法話

田舎坊主の七転八倒<坊主より詳しい?>


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仏事に関しては各宗派に違いがあります。

さらには同じ宗派でも地域によっても違いがあります。

これは仏事がそれぞれの地域の特色や歴代の住職の考え方などが大きく影響し、文化の一部として慣習化したものが少なくないからでしょう。

たとえば同じ宗派であっても、かつては土葬と火葬が共存していたため、それぞれの葬送の仕方を受け入れないところがありました。

土葬埋葬は亡きがらを捨てるようで、しかもその上に重い土をかけるのがかわいそうだといい、一方は火葬は熱そうだからいやだといいます。

また、葬式を済ませて中陰の間は仏壇を閉じるところと、開けたままにしておくところがあります。

当田舎寺では仏壇を閉めないようにお話ししています。

しかし親類縁者から閉めるようにいわれることが多いのか、この件についてはよく聞かれることでもあります。

仏壇は本来ご本尊を安置するものです。

ですからご本尊の安置されていない仏壇はあくまでもご先祖の位牌置き場ということになります。

もともと仏壇を家に置くようになったのは、ご先祖供養のためわざわざお寺へ行かなくてもいいように、いわばミニお寺を家の中に置く感覚で普及してきたと考えられます。

そのなかに方便としてご先祖の位牌を同居させているのが現在の仏壇のありようなのです。

その証拠に仏壇をよく見ると実際には位牌置き場というところはありません。

本尊を安置している須弥壇という高台に至る階段模様の段々上に位牌を置いているのが現状なのです。

あくまでも仏壇の主人はご本尊なのです。

特別に壇をしつらえお祀りされるのは、亡くなって間もないご先祖の魂が、名残なく迷うことなく黄泉の国へ旅立ってほしいと願い、大切なご本尊に手を合わせ、護られ、導かれたいと思うからであります。

にもかかわらず、ご本尊のいます仏壇が閉じられていたのでは、祈念が通じないのではないかと思うのです。

ですから私は中陰の間も仏壇を開けておくようにお話しします。

私の暮らす地域は二十数年前までは土葬が中心でした。

その後、多くの反対意見も出るなか、近くに火葬場もできたので、それからはすべて火葬に替わりました。

火葬の始まりは、2500年前、お釈迦さまはインド北部クシナガラで生涯を終え荼毘に付されたところからです。

火葬にされたお骨は世界七カ国に分骨され、それぞれガラス製の骨壺に納められ、それをお祀りする場所として仏舎利塔が建てられました。

これがストゥーパとよばれ、漢訳され現在の「卒塔婆」になったのです。

お骨になったということは、すべてが自然に還ったことであります。

すべてが自然に還った燃え残りとしてのお骨でさえ、あまりにも偉大なお釈迦さまのものであればこそ、貴重なガラスの器に入れ、これを礼拝する対象としたのです。

弘法大師ご入定のあと高野山を真言宗の根本霊場として完成させた真然大徳の御廟が修復された平成二年、、瑠璃色に焼かれた骨壺がそのまま掘り出されました。

このことは全国紙にもカラーで報道されました。

その骨壺はそのまま真然大徳の御遠忌で落慶された御廟に再び納められました。

このようにこういった方々の骨壺はとても大切に扱われるものであることは言うまでもありません。

しかし庶民の埋葬意識は少し違っていて、火葬してからもお骨を土に還すという観念で納骨される方がたくさんおられます。

埋葬文化は「土に還る」を第一義とされていますので、骨壺に入ったままでは土に還れず成仏できないと思うのでしょう。そういう方々は骨壺を割りお骨を直接土にまく必要があると考えているのです。

あるお宅の納骨供養の際、その親戚の長老らしき方が采配しだしました。

「おい、骨壺からお骨を出して、その穴へ撒いて・・・」

「壺を細かく割って、深いところに埋めて・・・」

 私が口を挟むまもなく納骨は進んでいきました。

「そのまえに、写経した用紙はあるか?」

「それはお骨の下に敷くんや」

「よっしゃあ、それでええわ」

写経用紙の取り扱いまで指導したところで、

「次は土をかけるんや、一鍬ずつでええで」

と、参列者を順番に名指ししながら最後まで取り仕切ってくれました。

その方が納骨に詳しいことは間違いないのですが、骨壺を割る必要がないことを話す暇も田舎坊主にはありませんでした。

それで安心が得られるのでしたら、またそれも善き哉。

合掌

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田舎坊主の読み聞かせ法話By 田舎坊主 森田良恒