田舎坊主の読み聞かせ法話

田舎坊主の求不得苦<不思議なやすらぎ>


Listen Later

ある檀家さんの奥さまからお手紙をいただいた。

内容は、三回忌に嫁ぎ先の両親のお墓を建てることをご主人と相談して決め、墓地を整え法事を済ませたとき、いろいろなことが脳裏をめぐったことなどその日の気持ちがしたためられていた。

とにかくお墓を建てることができて嬉しかったこと。そしてとてもありがたく思ったこと。自宅で90歳の天寿を全うし息をひきとった義母に添い寝したこと。

体の冷たさを感じながら実母よりはるかに多くの時間をともにし、味わった辛さ、悲しさ、喜び、優しさ。

いまもそのときの義母の冷たさを思い出し、はかなさや無常を実感しながら「今日一日無事に過ごさせてもらってありがとうございました」といつも言えるよう、優しい気持ちで暮らしたいと心に刻んだこと。しかもそれは不思議なやすらぎだったこと。

そのことをどうしても田舎坊主に聞いてもらいたいと、美しい字で書かれていた。

さらには実家の父親の死、出産途中で亡くなって逝ったわが子、そして兄、義姉など愛しい人たちとの別れの時の気持をダブらせながら、拙書「田舎坊主の愛別離苦」を読んだことが書かれていた。

生きているということは多くの愛しい人たちを見送ることでもあるのだ。

実父を送り、嫁ぎ先の両親を送り、兄姉やさらに子どもまでも見送った。

彼女にとって得られたものといえば、今日一日無事に過ごせたことに感謝できる心と、優しく日々暮らしていこうと誓う心の温かさだった。

もちろんいうまでもないが、見送られた人たちは何一つ得たものはなく、生きているうちに大切なものをただ与え続け、いまは墓石の下でしずかに眠っている。

ところで最近、火葬後の葬送の方法が変わってきている。

テレビでは自然に包まれ四季に咲く花や木の下に遺灰をまく樹木葬のコマーシャルが流れ、インターネットでは「手元供養」とかで遺灰をさまざまに加工する業者がホームページを公開している。

身寄りのない独り身だけではなく、家や家族に縛られることを嫌い墓石を建てることにこだわらず、自然界に散骨をしたり、遺された者もペンダントなどに加工して身につけ供養する人も多くなってきた。

本来、仏壇にせよ墓石にせよ、それはご先祖さまの居ます場所、依り代であるとともに、生きている者にとっての心の拠り所でもあった。

僧侶である私自身も仏壇や墓石を整えたときには不思議な安らぎを感じたことをいまも覚えている。

私たちには人生において突如として予期せぬ災難や苦労が降りかかってくることがある。

そんな時、信仰を持っていようがいまいが、自然に手を合わせ心から祈りたいと思うときがある。そのさきにご先祖がいる場合、相手が墓石になっていようが自然界の花や木の下であろうが、関係はない。

先立っていった愛しい人に「見守っていてね」「助けてあげてね」「力を与えてね」などと手を合わせる姿には、深い魂のつながりを感じずにはいられないのだ。

最近、形式や祀り方を事細かに押しつける人がいるのも事実だ。

しかしとりわけ宗教者がこういうことに固執し、お説教と称して檀家さんや信者さんに畏怖心をうえつけるのもどうかと思う。

「ほとけ」は「ほどける」から生まれた言葉だと聞いたことがある。

仏教の行事が人の心を窮屈にし、縛ってしまうようなことがあるならば本末転倒である。

ましてや般若心経の説いている「空」や「無」を理解し、法事などで読経している宗教者が押しつけているのならばなおさらのことだ。

さて先の手紙の「不思議な安らぎ」の具体的な心のうちは知るよしもないが、先ずは嫁ぎ先の両親のことを第一に思い、決断したことが正しい判断だったのだろう。

そのことがもつれていた心の糸を静かにほどき、何ものも縛らず、何ものにも縛られない穏やかな安らぎを感じたのではないかと、私は彼女の心の置きどころを勝手に想像している。


合掌

...more
View all episodesView all episodes
Download on the App Store

田舎坊主の読み聞かせ法話By 田舎坊主 森田良恒