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般若心経262文字のなかに「無」「空」「不」という文字が36文字含まれている。
これらの文字は、言わばネガティブで否定的で後ろ向きなものばかりである。決して夢や希望や楽しみというものを表しているとは思えない。
般若心経の冒頭を現代語で訳すると、「観自在菩薩は物質も精神も含め、この世の全てのものは『空』であると観て、あらゆる悩みや苦しみを超越された」と、はじめに書かれている。さらに、「得られるものがないので、全てのものにこだわりがないのです」と書かれている。
私たちが「自分のもの」と思っているものを失った時、悲しみや悔しさが生まれる。
しかし般若心経では「自分のもの」は本来、自分のものでもなく、さらにそれ自体「空」であり「無」であるというのだ。
そのように観念(心からそう思う)することによって、「苦」を乗り越えられると書かれているのだ。
たしかに何もないときにこそ、もののありがたみが分かるし、なくしてはじめてそのものの価値が分かるときがある。
*
私が大学を卒業して、坊主になることを覚悟したとき、あることをしてからでないと法衣を着て法事などには行けないと考えていた。
それは断食である。なぜ断食かというと、私はほんとうの空腹やひもじさというものを感じたことがなかったのだ。たしかに小坊主時代にはほとんどご馳走と呼べるものは食べられなかったが、それでも白いご飯だけはタップリあった。おかずはなくても空腹になることはなかった。むしろそのころの方が太っていた。
ところがその当時法事に来る大人の人たちは、戦中戦後の食糧難の時代を乗り越えた人ばかりなのだ。
小学校の校庭にまでサツマイモを植えそれを主食とし、しかしイモだけでは足らず、イモの蔓まで食料にしたというのだ。
若造の私はそんなひもじく辛い時代を生きてきた人たちよりも上座に座り、偉そうに法事を勤めることはできないと思ったのだ。
せめてほんとうの空腹だけは経験しておこうと思った。
決心して行ったところが信貴山断食道場だ。
ほとんどの人が内臓の調子を整える目的のために来ていた。
その道場では最長の断食期間が一ヶ月。そのうち本断食とよばれる絶食期間は一週間と決まっている。しかし私はどんなことが起こっても自分が責任をとるということで無理をお願いし、二週間の本断食とさせてもらうことにした。
はじめの一週間は減食期間、次の二週間が本断食、残りの一週間が復食期間と決まった。
本断食中には天然木の天上板がまるで精肉を並べたように見えるほど空腹にさいなまれた。
いよいよ本断食が終わり、減食を開始から22日目復食がはじまり、久しぶりに食べものを口にすることができるのだ。
食べものといっても一日2杯のおも湯である。
ところが、そのおも湯の、美味しいこと!美味しいこと!
おも湯はただのお粥の汁なのに、美味しいこと!美味しいこと!涙が出るほど。
このときに思った。空っぽだったからこそ、ただのおも湯に豊かで深い味わいを感じることができたのだと。
「空」や「無」こそほんとうの価値や感謝、ありがたさを感じることができるのだと。
*
般若心経は、単なるお唱えする「お経」だけではなく、学んだうえで「実践するお経」と言えるのかも知れない。
どんな災難や苦難が私たちを襲って「無」になっても、それで命を奪われてしまわない限り、それを乗り越えて生きていかなければならない。
そしてそのときになってはじめてほんとうの価値や感謝、ありがたさを発見するのかも知れない。
262文字中、36文字もの「無」や「空」や「不」は、森羅万象すべてのものの本来の価値を悟らせるために、仏の知恵として般若心経が説いていることなのではないだろうか。
合掌
般若心経262文字のなかに「無」「空」「不」という文字が36文字含まれている。
これらの文字は、言わばネガティブで否定的で後ろ向きなものばかりである。決して夢や希望や楽しみというものを表しているとは思えない。
般若心経の冒頭を現代語で訳すると、「観自在菩薩は物質も精神も含め、この世の全てのものは『空』であると観て、あらゆる悩みや苦しみを超越された」と、はじめに書かれている。さらに、「得られるものがないので、全てのものにこだわりがないのです」と書かれている。
私たちが「自分のもの」と思っているものを失った時、悲しみや悔しさが生まれる。
しかし般若心経では「自分のもの」は本来、自分のものでもなく、さらにそれ自体「空」であり「無」であるというのだ。
そのように観念(心からそう思う)することによって、「苦」を乗り越えられると書かれているのだ。
たしかに何もないときにこそ、もののありがたみが分かるし、なくしてはじめてそのものの価値が分かるときがある。
*
私が大学を卒業して、坊主になることを覚悟したとき、あることをしてからでないと法衣を着て法事などには行けないと考えていた。
それは断食である。なぜ断食かというと、私はほんとうの空腹やひもじさというものを感じたことがなかったのだ。たしかに小坊主時代にはほとんどご馳走と呼べるものは食べられなかったが、それでも白いご飯だけはタップリあった。おかずはなくても空腹になることはなかった。むしろそのころの方が太っていた。
ところがその当時法事に来る大人の人たちは、戦中戦後の食糧難の時代を乗り越えた人ばかりなのだ。
小学校の校庭にまでサツマイモを植えそれを主食とし、しかしイモだけでは足らず、イモの蔓まで食料にしたというのだ。
若造の私はそんなひもじく辛い時代を生きてきた人たちよりも上座に座り、偉そうに法事を勤めることはできないと思ったのだ。
せめてほんとうの空腹だけは経験しておこうと思った。
決心して行ったところが信貴山断食道場だ。
ほとんどの人が内臓の調子を整える目的のために来ていた。
その道場では最長の断食期間が一ヶ月。そのうち本断食とよばれる絶食期間は一週間と決まっている。しかし私はどんなことが起こっても自分が責任をとるということで無理をお願いし、二週間の本断食とさせてもらうことにした。
はじめの一週間は減食期間、次の二週間が本断食、残りの一週間が復食期間と決まった。
本断食中には天然木の天上板がまるで精肉を並べたように見えるほど空腹にさいなまれた。
いよいよ本断食が終わり、減食を開始から22日目復食がはじまり、久しぶりに食べものを口にすることができるのだ。
食べものといっても一日2杯のおも湯である。
ところが、そのおも湯の、美味しいこと!美味しいこと!
おも湯はただのお粥の汁なのに、美味しいこと!美味しいこと!涙が出るほど。
このときに思った。空っぽだったからこそ、ただのおも湯に豊かで深い味わいを感じることができたのだと。
「空」や「無」こそほんとうの価値や感謝、ありがたさを感じることができるのだと。
*
般若心経は、単なるお唱えする「お経」だけではなく、学んだうえで「実践するお経」と言えるのかも知れない。
どんな災難や苦難が私たちを襲って「無」になっても、それで命を奪われてしまわない限り、それを乗り越えて生きていかなければならない。
そしてそのときになってはじめてほんとうの価値や感謝、ありがたさを発見するのかも知れない。
262文字中、36文字もの「無」や「空」や「不」は、森羅万象すべてのものの本来の価値を悟らせるために、仏の知恵として般若心経が説いていることなのではないだろうか。
合掌