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私たちは食事の前に「いただきます」、食後は「ご馳走さまです」という。
ある中学校の講演で「いただきますはだれに言いますか?」という質問をした。
子どもたちに「きのう何を食べましたか?」と聞くと、「おでん」と答えてくれた。
「おでんの中の何を食べましたか?」
と聞くと、「たまご、ダイコン、牛すじ」と答えてくれた。
私たちは誰かのために働いたり、誰かの役に立つ作業をすれば報酬がいただける。会社に行って働けばお給料がいただける。
でも、たまごやダイコンや牛すじを食べればあなたの栄養となりエネルギー
となり命になるのに、鶏や牛やだいこんに報酬は渡らない。
お父さんが働いたお給料で、お母さんが鶏や牛やダイコンなどのお買い物をしてお金を支払っても、それはお店や卸業者や生産者に手渡されて、鶏や牛やだいこんには渡らない。
それどころか牛が解体処理場にいくとき涙を流すといい、鶏は狭いケージの中を精一杯羽ばたいて出ようとしないという。
すでに彼らは殺されることを悟っているのだ。
ダイコンは花を咲かせ種を蓄えるまで、大地に精いっぱい根を張ってなかなか抜かれまいとふんばるのだ。
これらの命をいただくのだから、自然に「いただきます」とでてくるのだ。
そして食べ終わればわざわざ「いただいた命で馳せ走ることができます」という意味の
「ご馳走さま」と言って、感謝の言葉で締めくくるのだ。
以前は「たべる」を「喰」とも書いた。この字は人がひざまずいて食べものを口に運んでいるようすからできた象形文字だそうだ。
人が食べものを口にすることによって「𠆢」の下に「口」がとり込まれ、この文字が変化して「命」という文字ができている。
仏教では、鶏や牛やダイコンのようにその命を提供し、人はそれを食しその命をつないでいる行為を、インドの古い言葉、梵語で「ダーナ(布施)」というのだ。「ダーナ」は日本では「檀那」となり、寺に布施する人を意味し、布施する家は「檀家」ということになる。
さらに「ダーナ」は英語圏では「ドナー」と変化する。
今では医療用語の「ドナー(提供者)」として普及しているが、本来はなんの報酬も求めず、他を生かすことが語源なのだ。
私たちは日々無数の食べものの「ダーナ(布施)」という行為で自分の命を生かさせてもらっているのだ。
だから「いただきます」は毎日の食卓にのぼる食べものに対して言っているのであって、お父さんやお母さんに言うのではないのだ。
*
私の娘が胆道閉鎖症という難病で死んだ四年後、平成元年に世界で四例目、日本で初めての生体肝移植がおこなわれた。ドナーは父親で、レシピエントとして手術を受けた子どもの病気は同じ胆道閉鎖症だった。
日本で脳死移植が認められるまでの緊急避難的に実施された手術であったが、各方面から「あなたは、やらないのか」という同病患者家族へのプレッシャーが社会に生まれるなどとして「問題がある」との声が多くあがったのを覚えている。
しかし、そのときの執刀医は、「このような状況のなかで、肝硬変で余命いくばくもないわが子を前にして、自分の肝臓を切ってでも助けたいという父親の心中を聞いたとき、主治医としてはこれしか方法はないと確信した。」
と、日本初の手術に対する決意を述べていた。
結局、その子は術後280日間生きぬき、翌年8月24日のお地蔵さまのご縁日に亡くなった。
葬儀に参列した執刀医は、「助けてあげられなくてごめんね、先生はこれからももっと勉強してYちゃんから教えてもらったたくさんのことを生かして、病気の子どもたちを一人でも多く救いたいと思います。あなたの死を絶対むだにはしません。」
と、涙ながらに弔辞を述べられた。
いま生体肝移植は一般保険治療対象の手術となっている。手術例も5000例を超えるという。
このドナーとなった尊い父親の行為と、亡くなっていったレシピエントであるYちゃんがのこしたものは、たくさんの命の贈りものとなって今多くの患者を救っているのだ。
合掌
私たちは食事の前に「いただきます」、食後は「ご馳走さまです」という。
ある中学校の講演で「いただきますはだれに言いますか?」という質問をした。
子どもたちに「きのう何を食べましたか?」と聞くと、「おでん」と答えてくれた。
「おでんの中の何を食べましたか?」
と聞くと、「たまご、ダイコン、牛すじ」と答えてくれた。
私たちは誰かのために働いたり、誰かの役に立つ作業をすれば報酬がいただける。会社に行って働けばお給料がいただける。
でも、たまごやダイコンや牛すじを食べればあなたの栄養となりエネルギー
となり命になるのに、鶏や牛やだいこんに報酬は渡らない。
お父さんが働いたお給料で、お母さんが鶏や牛やダイコンなどのお買い物をしてお金を支払っても、それはお店や卸業者や生産者に手渡されて、鶏や牛やだいこんには渡らない。
それどころか牛が解体処理場にいくとき涙を流すといい、鶏は狭いケージの中を精一杯羽ばたいて出ようとしないという。
すでに彼らは殺されることを悟っているのだ。
ダイコンは花を咲かせ種を蓄えるまで、大地に精いっぱい根を張ってなかなか抜かれまいとふんばるのだ。
これらの命をいただくのだから、自然に「いただきます」とでてくるのだ。
そして食べ終わればわざわざ「いただいた命で馳せ走ることができます」という意味の
「ご馳走さま」と言って、感謝の言葉で締めくくるのだ。
以前は「たべる」を「喰」とも書いた。この字は人がひざまずいて食べものを口に運んでいるようすからできた象形文字だそうだ。
人が食べものを口にすることによって「𠆢」の下に「口」がとり込まれ、この文字が変化して「命」という文字ができている。
仏教では、鶏や牛やダイコンのようにその命を提供し、人はそれを食しその命をつないでいる行為を、インドの古い言葉、梵語で「ダーナ(布施)」というのだ。「ダーナ」は日本では「檀那」となり、寺に布施する人を意味し、布施する家は「檀家」ということになる。
さらに「ダーナ」は英語圏では「ドナー」と変化する。
今では医療用語の「ドナー(提供者)」として普及しているが、本来はなんの報酬も求めず、他を生かすことが語源なのだ。
私たちは日々無数の食べものの「ダーナ(布施)」という行為で自分の命を生かさせてもらっているのだ。
だから「いただきます」は毎日の食卓にのぼる食べものに対して言っているのであって、お父さんやお母さんに言うのではないのだ。
*
私の娘が胆道閉鎖症という難病で死んだ四年後、平成元年に世界で四例目、日本で初めての生体肝移植がおこなわれた。ドナーは父親で、レシピエントとして手術を受けた子どもの病気は同じ胆道閉鎖症だった。
日本で脳死移植が認められるまでの緊急避難的に実施された手術であったが、各方面から「あなたは、やらないのか」という同病患者家族へのプレッシャーが社会に生まれるなどとして「問題がある」との声が多くあがったのを覚えている。
しかし、そのときの執刀医は、「このような状況のなかで、肝硬変で余命いくばくもないわが子を前にして、自分の肝臓を切ってでも助けたいという父親の心中を聞いたとき、主治医としてはこれしか方法はないと確信した。」
と、日本初の手術に対する決意を述べていた。
結局、その子は術後280日間生きぬき、翌年8月24日のお地蔵さまのご縁日に亡くなった。
葬儀に参列した執刀医は、「助けてあげられなくてごめんね、先生はこれからももっと勉強してYちゃんから教えてもらったたくさんのことを生かして、病気の子どもたちを一人でも多く救いたいと思います。あなたの死を絶対むだにはしません。」
と、涙ながらに弔辞を述べられた。
いま生体肝移植は一般保険治療対象の手術となっている。手術例も5000例を超えるという。
このドナーとなった尊い父親の行為と、亡くなっていったレシピエントであるYちゃんがのこしたものは、たくさんの命の贈りものとなって今多くの患者を救っているのだ。
合掌