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こんな笑い話がある。
ある男性の人生は「金、銭、カネ、ゼニ」の一生だった。
若くして大金持ちになることを望み、ただただ金儲けのために必死に働き続けたのだ。
ついには周囲の人々から「金の亡者」「あの人はカネしか頭にない」などと言われるようになってしまった。
しかしこの金の亡者も寄る年波には勝てず、自分が動けなくなってきた頃に、儲けたお金も、手に入れた高価な品々もすべてこの世に残していかなければならないことに気づいたのだ。
何一つとして手に握りしめていくことができないことにやっと気づいたのだ。
そこで家族に、「最期に、金の亡者と呼ばれたわしにもみんなに伝えたいことがある」といって、家族にこういい遺した。
「わしが死んだら棺には両脇に手が出るように穴を開けてくれ。そこからわしの手を出してくれ。そうしてみんなに伝えたいのじゃ。
わしは金の亡者とまで呼ばれたが、これこのとおり、何も手にしないであの世に行く。
生きているうちに人に喜ばれるようなカネの使い方をしてほしいのじゃ。元気なころからこれに気づいて、人のために使ってくればよかった。
みんなにしっかりと見てもらってくれ。なにひとつ手にしていないことを・・・」
葬式の日、約束どおり、棺箱の両脇に穴を開け、手を出した姿でみんなとお別れとなった。
会葬に参列した人たちに棺から両手が出た異様なすがたを見てもらった。
遺族は、「お父さんはみんなに金の亡者といわれたけれど、あの世に何も持っていけないことをこうして見てもらって、生きているうちに大事な使い方をするようにみんなに伝えたかったそうです。」と、父の遺言を伝えた。
果たして参列し別れを告げた人たちは故人の遺言どおり受け取ってくれたのだろうか?
残念ながら、お別れをした人たちから口々に話された言葉は、
「金の亡者だけあって、死んでもまだ金が欲しいようで、棺から手を出していたなあ」だった。
*
いくら最期に悟った真理であっても、素直に受け取ってもらえないのは淋しいことだ。
その原因はいったい何なのか。
いうまでもなく、それは彼の人生そのものが「捨てる人ではない」生き方だったからだろう。
笑い話とはいえ、「生き方」こそ大切だという戒めでもある。
自分ががんばって一生懸命必死にはたらいて得たものはすべて「自分のもの」と誰もが思っているが、結局それも「空」なるものなのだ。
しかし「空」なるものとはいえ、お金はなかなか「捨てる」事はできない。
*
しかし人は人生においてときどき「捨てる」練習をしているのではないだろうか。
それは寺や神社での「さい銭」だ。
寺や神社に投げ入れるさい銭は決められた金額でもなければ価格表もない。人に強要されたものでもない。
願いを込め感謝の心を込め、それまでは「自分のもの」であったお金に対する執着をはなれ、「捨てる」ことを練習していることにほかならないのだ。
しかも「捨てる」のだから、ゴミ出しをしたゴミの原価を考えないように、本来「いくら」捨てたのか忘れてしまう必要がある。
ところがそれでも、
「おい、神さんか仏さんよ、いつもなら100円のところ、きょうは太っ腹で1000円もさい銭入れたぞお。しっかりご利益くれよお!」
と、捨てたものの額にこだわり、捨てながら欲深いことをついつい叫んでしまうのだ。
私を含め凡人は、「自分のもの」となかなか執着を断つことはできないのだ。
だからこそ、人生の折々に「捨てる」練習を続けないと、なかなか上手に捨てられない。
ましてや「喜んで捨てる」ことができるようになるためにはなおさら練習が必要なのだ。
合掌
こんな笑い話がある。
ある男性の人生は「金、銭、カネ、ゼニ」の一生だった。
若くして大金持ちになることを望み、ただただ金儲けのために必死に働き続けたのだ。
ついには周囲の人々から「金の亡者」「あの人はカネしか頭にない」などと言われるようになってしまった。
しかしこの金の亡者も寄る年波には勝てず、自分が動けなくなってきた頃に、儲けたお金も、手に入れた高価な品々もすべてこの世に残していかなければならないことに気づいたのだ。
何一つとして手に握りしめていくことができないことにやっと気づいたのだ。
そこで家族に、「最期に、金の亡者と呼ばれたわしにもみんなに伝えたいことがある」といって、家族にこういい遺した。
「わしが死んだら棺には両脇に手が出るように穴を開けてくれ。そこからわしの手を出してくれ。そうしてみんなに伝えたいのじゃ。
わしは金の亡者とまで呼ばれたが、これこのとおり、何も手にしないであの世に行く。
生きているうちに人に喜ばれるようなカネの使い方をしてほしいのじゃ。元気なころからこれに気づいて、人のために使ってくればよかった。
みんなにしっかりと見てもらってくれ。なにひとつ手にしていないことを・・・」
葬式の日、約束どおり、棺箱の両脇に穴を開け、手を出した姿でみんなとお別れとなった。
会葬に参列した人たちに棺から両手が出た異様なすがたを見てもらった。
遺族は、「お父さんはみんなに金の亡者といわれたけれど、あの世に何も持っていけないことをこうして見てもらって、生きているうちに大事な使い方をするようにみんなに伝えたかったそうです。」と、父の遺言を伝えた。
果たして参列し別れを告げた人たちは故人の遺言どおり受け取ってくれたのだろうか?
残念ながら、お別れをした人たちから口々に話された言葉は、
「金の亡者だけあって、死んでもまだ金が欲しいようで、棺から手を出していたなあ」だった。
*
いくら最期に悟った真理であっても、素直に受け取ってもらえないのは淋しいことだ。
その原因はいったい何なのか。
いうまでもなく、それは彼の人生そのものが「捨てる人ではない」生き方だったからだろう。
笑い話とはいえ、「生き方」こそ大切だという戒めでもある。
自分ががんばって一生懸命必死にはたらいて得たものはすべて「自分のもの」と誰もが思っているが、結局それも「空」なるものなのだ。
しかし「空」なるものとはいえ、お金はなかなか「捨てる」事はできない。
*
しかし人は人生においてときどき「捨てる」練習をしているのではないだろうか。
それは寺や神社での「さい銭」だ。
寺や神社に投げ入れるさい銭は決められた金額でもなければ価格表もない。人に強要されたものでもない。
願いを込め感謝の心を込め、それまでは「自分のもの」であったお金に対する執着をはなれ、「捨てる」ことを練習していることにほかならないのだ。
しかも「捨てる」のだから、ゴミ出しをしたゴミの原価を考えないように、本来「いくら」捨てたのか忘れてしまう必要がある。
ところがそれでも、
「おい、神さんか仏さんよ、いつもなら100円のところ、きょうは太っ腹で1000円もさい銭入れたぞお。しっかりご利益くれよお!」
と、捨てたものの額にこだわり、捨てながら欲深いことをついつい叫んでしまうのだ。
私を含め凡人は、「自分のもの」となかなか執着を断つことはできないのだ。
だからこそ、人生の折々に「捨てる」練習を続けないと、なかなか上手に捨てられない。
ましてや「喜んで捨てる」ことができるようになるためにはなおさら練習が必要なのだ。
合掌