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般若心経には「諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」という箇所がある。
大意は、「すべての存在は空なのです。すべての存在には実体がないということです。ですから生滅もなく、浄不浄もなくまた増減もないのです。」
分かりやすくいえば、生滅がないということは、生じることも滅することもなく、それは変化している現象に過ぎない。浄いとか不浄というのは人が勝手に判断して思い込んでいることであり、増えたり減ったりするのも「水」と「氷」と「水蒸気」の関係のようにただ姿を変えているに過ぎないのだ。
さらに、すべては空なのだから「是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界」と経中解説している。
大意は、「この故に、空の中に色なく、受想行識なく、眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もないのです。眼界もなく、および意識界もないのです。」
要するに、したがって実体がないのだから、「色受想行識」という物質的存在も精神作用もなく、「眼耳鼻舌身意(六根)」という感覚器官もなければ「色声香味触法(六境)」という対象世界もない。そして感覚器官とその対象との接触によって生じる「眼識界、耳識界、鼻識界、舌識界、身識界、意識界(六識)」とよばれる認識もない。
分かりやすく言い換えれば、人は好ましいモノは取り入れ、いやなことは避け、個人の判断で多くの情報を取捨選択しているというのだ。
*
老子十二章においても次のようなことが書かれている。
『五色は人の目をして盲ならしめ、五音は人の耳をして聾ならしめ、五味は人の口をして爽ならしむ。馳騁田猟は人の心をして狂を発せしめ、得がたきの貨は人をして行を妨げしむ。これをもって聖人は腹のためにして目のためにせず。』
分かりやすくいえば、さまざまな色や音は人の目や耳をくらませ、美味しいものばかり食べていると人の味覚は鈍くなる。ギャンブルなどのように成果ばかりを追って猟のようなことをしていると心まで狂ってしまう。貴重で高貨なものは人の行動を誤らせる。だから正しく悟った人は見た目や外面ではなく内面的な充足を求めて行動するのだ。
さらに、和歌山県湯浅町生まれで華厳中興の祖、明恵上人の「明恵上人伝記」には、
『髪を剃れる頭も其の験(しるし)とするに足らず。
法衣を着せる姿も其の甲斐更になし。
この心押さえ難きによりて、弥(いよいよ)形をやつして人間を辞し、志を堅くして如来の跡を踏まんことを思う。
然るに眼をくじらば聖教を見ざる歎きあり。
鼻を切らば即ちすす鼻垂りて聖教を汚さん。
手を切らば印を結ばんに煩いあらん。
耳を切るといえども聞こえざるべきに非ず。
然れども五根の欠けたるに似たり。
去れども片輪者にならずば、なおも人の崇敬にばかされて思わざる外に心弱き身なれば出世もしつべし。』
つまり、
たとえ髪を剃り、法衣を着ていてもそのことで悟れる坊主かというとそうではない。
そのように思い込んでくると、ますます姿を人間らしさから離れ仏道に専念し、お釈迦さまのあとを歩みたいと思う。
だからといって、目をつぶしてしまってはお経が読めなくなる。鼻を削いでしまったら常に鼻水が落ちて尊い経典を汚してしまう。
手がなくなれば印を結べなくなってしまう。
しかし、耳を切り取っても音が聞こえないわけではない。
五根の一つを欠いたようにはなるが、そうならなくては、やはり人から受ける尊敬のためにごまかされて、心の弱い男であるから世間的な出世を望んでしまうかも知れない。
般若心経が説いている「諸法空相」のように、老子にしても明恵上人にしても、本来「空」であるにもかかわらず、私たちの心のありようや置かれた状況によって、そのものに何らかの意味を持たせ、さまざまな価値判断を加えているのはまさに個人の心そのものなのだ。
合掌
般若心経には「諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」という箇所がある。
大意は、「すべての存在は空なのです。すべての存在には実体がないということです。ですから生滅もなく、浄不浄もなくまた増減もないのです。」
分かりやすくいえば、生滅がないということは、生じることも滅することもなく、それは変化している現象に過ぎない。浄いとか不浄というのは人が勝手に判断して思い込んでいることであり、増えたり減ったりするのも「水」と「氷」と「水蒸気」の関係のようにただ姿を変えているに過ぎないのだ。
さらに、すべては空なのだから「是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界」と経中解説している。
大意は、「この故に、空の中に色なく、受想行識なく、眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もないのです。眼界もなく、および意識界もないのです。」
要するに、したがって実体がないのだから、「色受想行識」という物質的存在も精神作用もなく、「眼耳鼻舌身意(六根)」という感覚器官もなければ「色声香味触法(六境)」という対象世界もない。そして感覚器官とその対象との接触によって生じる「眼識界、耳識界、鼻識界、舌識界、身識界、意識界(六識)」とよばれる認識もない。
分かりやすく言い換えれば、人は好ましいモノは取り入れ、いやなことは避け、個人の判断で多くの情報を取捨選択しているというのだ。
*
老子十二章においても次のようなことが書かれている。
『五色は人の目をして盲ならしめ、五音は人の耳をして聾ならしめ、五味は人の口をして爽ならしむ。馳騁田猟は人の心をして狂を発せしめ、得がたきの貨は人をして行を妨げしむ。これをもって聖人は腹のためにして目のためにせず。』
分かりやすくいえば、さまざまな色や音は人の目や耳をくらませ、美味しいものばかり食べていると人の味覚は鈍くなる。ギャンブルなどのように成果ばかりを追って猟のようなことをしていると心まで狂ってしまう。貴重で高貨なものは人の行動を誤らせる。だから正しく悟った人は見た目や外面ではなく内面的な充足を求めて行動するのだ。
さらに、和歌山県湯浅町生まれで華厳中興の祖、明恵上人の「明恵上人伝記」には、
『髪を剃れる頭も其の験(しるし)とするに足らず。
法衣を着せる姿も其の甲斐更になし。
この心押さえ難きによりて、弥(いよいよ)形をやつして人間を辞し、志を堅くして如来の跡を踏まんことを思う。
然るに眼をくじらば聖教を見ざる歎きあり。
鼻を切らば即ちすす鼻垂りて聖教を汚さん。
手を切らば印を結ばんに煩いあらん。
耳を切るといえども聞こえざるべきに非ず。
然れども五根の欠けたるに似たり。
去れども片輪者にならずば、なおも人の崇敬にばかされて思わざる外に心弱き身なれば出世もしつべし。』
つまり、
たとえ髪を剃り、法衣を着ていてもそのことで悟れる坊主かというとそうではない。
そのように思い込んでくると、ますます姿を人間らしさから離れ仏道に専念し、お釈迦さまのあとを歩みたいと思う。
だからといって、目をつぶしてしまってはお経が読めなくなる。鼻を削いでしまったら常に鼻水が落ちて尊い経典を汚してしまう。
手がなくなれば印を結べなくなってしまう。
しかし、耳を切り取っても音が聞こえないわけではない。
五根の一つを欠いたようにはなるが、そうならなくては、やはり人から受ける尊敬のためにごまかされて、心の弱い男であるから世間的な出世を望んでしまうかも知れない。
般若心経が説いている「諸法空相」のように、老子にしても明恵上人にしても、本来「空」であるにもかかわらず、私たちの心のありようや置かれた状況によって、そのものに何らかの意味を持たせ、さまざまな価値判断を加えているのはまさに個人の心そのものなのだ。
合掌