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ウルトラマンを作った男「金城哲夫」氏について


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シン・ウルトラマンで話題のウルトラマン。物語としてのウルトラマンの生みの親「金城哲夫」氏の、その生涯について、語りました!

金城哲夫

1938年に東京で生まれたが、中学までを沖縄で過ごした。中学卒業後の1955年、那覇高校の受験に失敗、上京して玉川学園高等部、玉川大学文学部教育学科卒業。玉川時代に、入試の面接官であった上原輝男から民俗学を学び、研究するようになる。大学の専任講師である上原輝男の影響を受け、脚本に興味を持ち始める。上京した際に上原より教え子の一人だった円谷皐を介して円谷英二を紹介されて、彼の自宅である円谷特技研究所に出入りしながら東宝特撮映画で健筆を振るっていた関沢新一から脚本家としての指導を受ける。関沢の薫陶による「ポジティブな娯楽(エンターテインメント)志向」は以後の金城の作風の根幹をなした。1962年、TBSのテレビドラマ『絆』でデビュー]。同年、一度帰郷し長編映画『吉屋チルー物語』を自主制作。

1963年4月に設立された円谷特技プロダクションへ参画、企画文芸室の主任として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ウルトラセブン』など、黎明期の円谷プロが製作した特撮テレビ映画の企画立案と脚本を手掛ける。『Q』『マン』の相次ぐ高視聴率により怪獣ブームを巻き起こし順風満帆かと思われたが、大人向けの特撮を目指した1968年製作の『マイティジャック』は、平均視聴率が8.3%と低迷したために1クールで打ち切りとなってしまう。挽回を図った『怪奇大作戦』は、平均視聴率22%と健闘したものの、番組の提供スポンサーが「ウルトラに比べて低い」という判断を下したために、予定の2クールで終了。番組の受注が途絶えた円谷プロは経営状態の悪化に伴い、大幅なリストラを敢行し始める。その煽りで文芸部も廃され、以前のような発言力を失った金城は今後はシナリオライターではなくプロデューサーへ専念するように迫られたことで、1969年に円谷プロを退社した。その後は沖縄県に帰郷し、ラジオパーソナリティ、沖縄芝居の脚本・演出、沖縄海洋博の構成・演出などで活躍した。

1976年2月23日、泥酔した状態で自宅の離れ2階の仕事場へ外から直接入ろうとして足を滑らせ、転落。直ちに病院に搬送されたが、3日後の2月26日に脳挫傷のため死去。37歳没。

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