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July 15, 2025鄭南榕記念館オーディオガイド 7.鄭南榕と三大運動:(4) 1987 / 519国家安全法制定 への反対3 minutesPlay【鄭南榕と三大運動:(4) 1987 / 519国家安全法制定 への反対】1986年の「519グリーンアクション」の後、台湾社会において野党・ 民主進歩党の成立や「二二八事件の名誉回復運動」など、ますます増える反 対運動が、タブーを絶えずに突破していきました。それは、国内外から蓄積 してきた圧力が国民党政府に戒厳令の解除を促したからです。しかし、この 動きがでてくると同時に、当局は戒厳令に代わる「国家安全法」によって、 あいもかわらずに言論の自由を制限し、手を変え品を変えて人民をコントロ ールし続けようとしているという噂も立ちました。これにともなって、19 87年の「519グリーンアクション」のスローガンは、戒厳令の解除を要 求するほか、「国家安全法」制定の反対も加えられたのです。権威統治体制 の根絶と徹底的民主主義と自由を勝ち取ることだけが、人々の希望でした。そして、金華中学校で行われた「国家安全法」制定への反対行動の説明集会 で、壇上に立った鄭南榕は、「私は鄭南榕、私は台湾独立を主張する」と公 言しました。公の場で「台湾独立」を叫んだ最初の人物でした。1987年7月15日、台湾は戒厳令が解除されたと同時に「国家安全法」 が施行されました。それに旧来の「反乱鎮定動員時期」はまだ継続しており、 また「懲治叛乱条例」「共産党スパイ粛正条例」や従来の「刑法100条」 はまだ温存していました。依然としてこれらの法令によって台湾社会に数多 くの不自由が残っていました。大勢の人がブラックリストに載せられて帰郷 できなくなり、また何かを言い間違えただけで逮捕、投獄または死刑に処さ れています。人民に対する政府のコントロールは依然として続いていました。 それは、戒厳令が解除された台湾でもまだ、本当の意味での自由の空気は迎 えていなかったのです。--Hosting provided by SoundOn ...moreShareView all episodesBy 鄭南榕基金會July 15, 2025鄭南榕記念館オーディオガイド 7.鄭南榕と三大運動:(4) 1987 / 519国家安全法制定 への反対3 minutesPlay【鄭南榕と三大運動:(4) 1987 / 519国家安全法制定 への反対】1986年の「519グリーンアクション」の後、台湾社会において野党・ 民主進歩党の成立や「二二八事件の名誉回復運動」など、ますます増える反 対運動が、タブーを絶えずに突破していきました。それは、国内外から蓄積 してきた圧力が国民党政府に戒厳令の解除を促したからです。しかし、この 動きがでてくると同時に、当局は戒厳令に代わる「国家安全法」によって、 あいもかわらずに言論の自由を制限し、手を変え品を変えて人民をコントロ ールし続けようとしているという噂も立ちました。これにともなって、19 87年の「519グリーンアクション」のスローガンは、戒厳令の解除を要 求するほか、「国家安全法」制定の反対も加えられたのです。権威統治体制 の根絶と徹底的民主主義と自由を勝ち取ることだけが、人々の希望でした。そして、金華中学校で行われた「国家安全法」制定への反対行動の説明集会 で、壇上に立った鄭南榕は、「私は鄭南榕、私は台湾独立を主張する」と公 言しました。公の場で「台湾独立」を叫んだ最初の人物でした。1987年7月15日、台湾は戒厳令が解除されたと同時に「国家安全法」 が施行されました。それに旧来の「反乱鎮定動員時期」はまだ継続しており、 また「懲治叛乱条例」「共産党スパイ粛正条例」や従来の「刑法100条」 はまだ温存していました。依然としてこれらの法令によって台湾社会に数多 くの不自由が残っていました。大勢の人がブラックリストに載せられて帰郷 できなくなり、また何かを言い間違えただけで逮捕、投獄または死刑に処さ れています。人民に対する政府のコントロールは依然として続いていました。 それは、戒厳令が解除された台湾でもまだ、本当の意味での自由の空気は迎 えていなかったのです。--Hosting provided by SoundOn ...more
【鄭南榕と三大運動:(4) 1987 / 519国家安全法制定 への反対】1986年の「519グリーンアクション」の後、台湾社会において野党・ 民主進歩党の成立や「二二八事件の名誉回復運動」など、ますます増える反 対運動が、タブーを絶えずに突破していきました。それは、国内外から蓄積 してきた圧力が国民党政府に戒厳令の解除を促したからです。しかし、この 動きがでてくると同時に、当局は戒厳令に代わる「国家安全法」によって、 あいもかわらずに言論の自由を制限し、手を変え品を変えて人民をコントロ ールし続けようとしているという噂も立ちました。これにともなって、19 87年の「519グリーンアクション」のスローガンは、戒厳令の解除を要 求するほか、「国家安全法」制定の反対も加えられたのです。権威統治体制 の根絶と徹底的民主主義と自由を勝ち取ることだけが、人々の希望でした。そして、金華中学校で行われた「国家安全法」制定への反対行動の説明集会 で、壇上に立った鄭南榕は、「私は鄭南榕、私は台湾独立を主張する」と公 言しました。公の場で「台湾独立」を叫んだ最初の人物でした。1987年7月15日、台湾は戒厳令が解除されたと同時に「国家安全法」 が施行されました。それに旧来の「反乱鎮定動員時期」はまだ継続しており、 また「懲治叛乱条例」「共産党スパイ粛正条例」や従来の「刑法100条」 はまだ温存していました。依然としてこれらの法令によって台湾社会に数多 くの不自由が残っていました。大勢の人がブラックリストに載せられて帰郷 できなくなり、また何かを言い間違えただけで逮捕、投獄または死刑に処さ れています。人民に対する政府のコントロールは依然として続いていました。 それは、戒厳令が解除された台湾でもまだ、本当の意味での自由の空気は迎 えていなかったのです。--Hosting provided by SoundOn
July 15, 2025鄭南榕記念館オーディオガイド 7.鄭南榕と三大運動:(4) 1987 / 519国家安全法制定 への反対3 minutesPlay【鄭南榕と三大運動:(4) 1987 / 519国家安全法制定 への反対】1986年の「519グリーンアクション」の後、台湾社会において野党・ 民主進歩党の成立や「二二八事件の名誉回復運動」など、ますます増える反 対運動が、タブーを絶えずに突破していきました。それは、国内外から蓄積 してきた圧力が国民党政府に戒厳令の解除を促したからです。しかし、この 動きがでてくると同時に、当局は戒厳令に代わる「国家安全法」によって、 あいもかわらずに言論の自由を制限し、手を変え品を変えて人民をコントロ ールし続けようとしているという噂も立ちました。これにともなって、19 87年の「519グリーンアクション」のスローガンは、戒厳令の解除を要 求するほか、「国家安全法」制定の反対も加えられたのです。権威統治体制 の根絶と徹底的民主主義と自由を勝ち取ることだけが、人々の希望でした。そして、金華中学校で行われた「国家安全法」制定への反対行動の説明集会 で、壇上に立った鄭南榕は、「私は鄭南榕、私は台湾独立を主張する」と公 言しました。公の場で「台湾独立」を叫んだ最初の人物でした。1987年7月15日、台湾は戒厳令が解除されたと同時に「国家安全法」 が施行されました。それに旧来の「反乱鎮定動員時期」はまだ継続しており、 また「懲治叛乱条例」「共産党スパイ粛正条例」や従来の「刑法100条」 はまだ温存していました。依然としてこれらの法令によって台湾社会に数多 くの不自由が残っていました。大勢の人がブラックリストに載せられて帰郷 できなくなり、また何かを言い間違えただけで逮捕、投獄または死刑に処さ れています。人民に対する政府のコントロールは依然として続いていました。 それは、戒厳令が解除された台湾でもまだ、本当の意味での自由の空気は迎 えていなかったのです。--Hosting provided by SoundOn ...more
【鄭南榕と三大運動:(4) 1987 / 519国家安全法制定 への反対】1986年の「519グリーンアクション」の後、台湾社会において野党・ 民主進歩党の成立や「二二八事件の名誉回復運動」など、ますます増える反 対運動が、タブーを絶えずに突破していきました。それは、国内外から蓄積 してきた圧力が国民党政府に戒厳令の解除を促したからです。しかし、この 動きがでてくると同時に、当局は戒厳令に代わる「国家安全法」によって、 あいもかわらずに言論の自由を制限し、手を変え品を変えて人民をコントロ ールし続けようとしているという噂も立ちました。これにともなって、19 87年の「519グリーンアクション」のスローガンは、戒厳令の解除を要 求するほか、「国家安全法」制定の反対も加えられたのです。権威統治体制 の根絶と徹底的民主主義と自由を勝ち取ることだけが、人々の希望でした。そして、金華中学校で行われた「国家安全法」制定への反対行動の説明集会 で、壇上に立った鄭南榕は、「私は鄭南榕、私は台湾独立を主張する」と公 言しました。公の場で「台湾独立」を叫んだ最初の人物でした。1987年7月15日、台湾は戒厳令が解除されたと同時に「国家安全法」 が施行されました。それに旧来の「反乱鎮定動員時期」はまだ継続しており、 また「懲治叛乱条例」「共産党スパイ粛正条例」や従来の「刑法100条」 はまだ温存していました。依然としてこれらの法令によって台湾社会に数多 くの不自由が残っていました。大勢の人がブラックリストに載せられて帰郷 できなくなり、また何かを言い間違えただけで逮捕、投獄または死刑に処さ れています。人民に対する政府のコントロールは依然として続いていました。 それは、戒厳令が解除された台湾でもまだ、本当の意味での自由の空気は迎 えていなかったのです。--Hosting provided by SoundOn