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ーツヴァイスタンの下間宅ー
「はぁはぁはぁはぁ…。」
息を切らす下間悠里の目の前には、家政婦とその子供の無残な遺体が転がっていた。
「に…兄さん…。」
悠里の背中に麗は声をかけた。
「来るな…はぁはぁ…。」
「兄さん…。」
「うるさい!!」
持っていた鍬を悠里は力なく床に落とした。
麗は悠里がいる部屋の様子を見た。あたり一面に血しぶきが飛び散っている。悠里にも大量の返り血のようなものが付着していた。
「お…お母さん…。」
「黙れ!!」
麗の身体が震え出していた。
その時である。家の扉が開かれた。振り返るとそこに男がひとり立っていた。
「イ…イマガワ…さん?」
男は麗の方をちらりと見て、そのまま立ち尽くす悠里の側に立った。
「良くやった。」
未だ息を切らす悠里の肩を叩いて彼はこう言った。
「この家政婦は党の規律に違反して幹部に賄賂を渡していた。それを自らの手で処分したお前は素晴らしい。」
「はぁはぁはぁ…。」
「これでお前は党のエリートコースを歩める。」
「え…?」
「特別学校だよ。おめでとう。」
「どういうことですか…。」
今川は横たわる遺体を覗き込んだ。そして手袋をはめ家政婦の胸元を調べた。
「ほうほう…几帳面にメモしてあるな。」
彼の手には一冊の手帳のようなものがあった。
「こっちから渡した金はほぼ全額幹部のところに行ってるか…。ミカイル、ヴィチャスラフ、ヤロポロフね…。これは物証になるな。」
「あの…。」
「これで奴らは俺の統制下に置くことができる。」
「え?」
立ち上がった今川は再び悠里を見た。
「特別学校のこと、お前知ってるよな。」
「…あ…はい…。」
「党に忠誠を誓う秘密警察養成学校。ここに入ることはその後の人生を約束されたと同じ意味を持つ。」
遺体に背を向けた今川は悠里の頭を撫でた。
「おめでとう。」
人を殺してしまったというのに自分が褒められ、祝福さえされていることに悠里は戸惑いしか感じなかった。
「え…でも…。」
「うん?どうした?」
「ぼ…僕は…人を…。」
「いいんだよ。これで。俺はお前を試した。」
「え…?」
「正確に言うと試験だ。」
「試験…?」
「ああ。特別学校の卒業要件のひとつに規律違反分子を自分の手で処分するというのがある。」
「え?」
「お前はその特別学校に入学する前に、自分の力で規律違反分子を調べあげ、処分まで成し遂げた。入学前に卒業要件を満たすなんて人材はなかなかいない。首席入学だな。」
「お…おれ…が…。」
「ああ。卒業すればお前は晴れてオフラーナ(秘密警察)の一員だ。」
瞬間、一定の距離をおいて二人のやり取りを呆然と見ていた麗が間に割って入った。
「麗…。」
彼女は床に転がる鍬をその小さな身体でもってなんとか持ち上げた。
「どうしたんだ…麗…。」
「なんだ…こいつ…。」
今川が訝しげな顔をした瞬間、彼女が手にする鍬は目の前に横たわる家政婦の息子の頭蓋めがけて振り下ろされた。
「麗っ!」
鈍い音が部屋に響くと同時に、床に広がった血だまりに足を滑らせて麗は転倒してしまった。
「麗っ!何やってんだ!」
悠里は咄嗟に彼女を抱きかかえた。その時である。彼の目に床に転がる一丁の拳銃が映りこんだ。
「え…。」
「こいつ…兄さん狙ってた…。」
胸元から拳銃を取り出した今川は消音化されたそれで、家政婦の息子の腹と頭部めがけて発砲した。またたく間の出来事だった。
「なんて子だ…。」
銃をしまった今川は座り込んで麗の顔を覗き込んだ。
「悠里もそうだが、麗。お前も相当見込みありだな。」
頭を撫でられた麗はその後のことをあまり覚えていない。
「え…それって…。」
「…長谷部君が今思ってるとおりよ。」
「そ…そんな…。」
「私も兄さん同様人殺し。」
自分の体から一気に血の気が引いていくのを長谷部は感じた。
「兄さんはそれから間もなく特別学校に入学して飛び級で卒業してオフラーナに入った。わたしは女だからあそこには入れないの。その代わりなのかわからないけど、次にあてがわれた男のお手伝いさんが私にいろいろ教えてくれた。お小遣いもいっぱい貰ったの。」
長谷部は無言である。
「わかったでしょ。」
「…え?」
「イマガワがすべての元凶なの。イマガワがウチに介入さえしなければ私も兄さんもこんなことになってなかった。」
「…。」
「後で分かったんだけど、父さんを日本での任務に従事させたのもイマガワだったの。」
「え?」
「留守になる下間家に家政婦を送り込んだのもイマガワ。それを始末させたのもイマガワ。不正を働いていた幹部連中を脅してツヴァイスタン内での地位を確率できたのもイマガワ。イマガワさえ居なければ私らは普通にあの国で生活できた。」
「何ねんて…それ…。」
「私の家は気づいたらイマガワの統制下に置かれてたってわけよ。」
長谷部は呆然とした。
「どう?話し合いでなんとかなる?」
「え…。」
「ねぇ話し合いでなんとかなる?」
「そ…それは…。」
麗はため息をついた。
「お願い…。なんとかなるって言って…。」
「え?」
「長谷部君しか頼れないの…。」
「そ…そんな…。」
再び長谷部の携帯電話が震えた。彼は無意識のうちにそれを手にした。
「あ…。」
相馬からの着信であった。
「相馬…。」
「え?相馬くん?」
「だめや…俺…今、とてもあいつの電話なんか出られん…。」
ポケットにしまおうとした矢先、それは麗によって奪われた。
「ああっ!」
受話ボタンを押下した麗は相馬からの電話に出てしまったのであった。