Sign up to save your podcastsEmail addressPasswordRegisterOrContinue with GoogleAlready have an account? Log in here.
FAQs about オーディオドラマ「五の線3」:How many episodes does オーディオドラマ「五の線3」 have?The podcast currently has 262 episodes available.
October 04, 2025210 最終話「五の線」このブラウザでは再生できません。古田が亡くなって、まもなくひと月が経とうとしていた。午後の陽が差し込む駅近く。木造二階建てのアパートの前に、森はひとり立っていた。引き渡しは今日。部屋の中に残っていた遺品は、すでに古田の娘がすべて引き取っていった。小さな郵便受けの名札には、まだ「フルタ」の名前が貼られたままだった。ドアの前で、森は立ち止まり、そっと呟いた。「……トシさん」その声は風にさらわれ、誰の耳にも届くことはなかった。「……私、怖いわ……」目を伏せ、森は続ける。「あんなに濃くて、強くて……絶対に消えないって思ってた存在だったのに。今じゃ、朝の通勤途中にふと思い出すことも減ってきてる。」自分の脳が、意図せず彼を遠ざけようとしているような気がしてならなかった。「……思い出さなければ、まるで最初からいなかったみたいになる。人って、そんなふうに……できてるのかしら。」彼が日常にいたはずの痕跡――玄関マット、洗濯物の匂い、部屋の明かり――それらすべてが、あまりにも簡単に消えていった。「……こんなにも、いい加減にできてるんだな。人間の記憶ってのはよ。」ふと顔を上げると、空は、雲一つない青だった。森は小さく息を吸い込んだ。アパートの前でしばらく立ち尽くしていた森は、やがて振り返った。ゆっくりと階段を降り、アパートを背に歩き出す。道端に一台の車が停まっていた。しばらくして、その車のエンジンが静かにかかる。助手席のドアを開けて乗り込むと、運転席には山県久美子がいた。「……なにか、話しかけてたみたいでしたけど。」ハンドルを握ったまま、久美子がちらりと横目で言った。森は目を伏せたまま、小さく首を振る。「……ううん、なんでもない。独り言よ」少しだけ沈黙が流れた。「……あんたは、いいの?」そう問いかける森に、久美子は一度、顔を正面に向けたまま黙っていた。そして、ほんのわずかに首を横に振る。「……まだ、わかんない。たぶん……よくないと思う。でも……」言葉を途中で切り、久美子はウィンカーを出した。車はゆっくりと、街のほうへと走り出す。「それでも、生きていかなきゃ……。」久美子のその言葉に、森は何も返さなかった。助手席の窓から流れる風景を見ながら、ただ黙って頷いた。車内にはしばらく、アイドリングの音だけが流れていた。久美子はためらうようにダッシュボードのスイッチをひとつ押す。カチ、と軽い音を立てて、ラジオがつく。少しこもった音質の中から、ニュースキャスターの落ち着いた声が流れてきた。「――ツヴァイスタン人民共和国に拉致されていた千名以上の被害者たち。その帰還事業が、本格化しています」森はゆっくりと顔を上げ、助手席の窓の外を見つめたまま、耳だけを傾ける。「連日、空港では出迎えに涙する家族の姿が見られ、再会を果たした被害者たちの表情がカメラに映し出されています」久美子はハンドルに手を置いたまま、前を向いていた。窓の外では、風に揺れる幟(のぼり)がぼんやりと揺れていた。「帰国者の多くは、日本への帰国を望んでいる一方で、長年の異国での生活による心身の変調や、日本社会への再適応の困難といった問題も指摘されています。それでも、世論はおおむね“帰還”を歓迎する姿勢を示しており――」森は、胸の内で何かが押し寄せるのを感じた。「――“やっと何かが終わった”“やっと何かが始まる”……。そんな声が、いま日本各地で聞かれています」ラジオを聞いていた男の前でコーヒーの湯気が揺れる。テーブルを挟んで、朽木と向かい合って黒田が座っていた。「……仁川征爾も、ツヴァイスタンに拉致されていたと判明しました。」黒田は、朽木の問いを待たず、静かにそう言った。「ほうか……ほんなら、征爾も戻ってくるんか?」朽木の問いに、黒田は少しだけ間を置いた。「……関係筋によると、仁川は向こうで“事故”に遭ったそうです。」淡々とした口調だったが、その目には、わずかに迷いがあった。「……遺体は、確認されていません。」朽木が怪訝そうに目を細める。黒田はコーヒーに視線を落とした。「――じゃあ、あのニッカⅢは?」朽木がぽつりと訊く。黒田は、薄く笑った。「まだ警察が預かってるそうです。なので俺が責任を持って……彼の“墓”に供えます。」「墓言うて、あのツヴァイスタンに征爾の墓があるんか。」 「……ええ、まあ、“見つかる”かは分かりませんが。」“見つかる”という言葉に、少しだけ力が込められた気がした。ーーー松永は黙って写真を裏返した。そこには何の書き込みも、日付もなかった。「……これが最後の“証拠”か。」誰にともなく呟いたあと、松永は視線を持ち上げた。「百目鬼、このフィルムの管理は?」「こちらで保管。報告書には“個人遺留品”として記録します。」「関。」「……内調としても、ここは沈めるべきかと判断しています。」松永は短く頷き、写真をもう一度手に取った。「――しかし、奇妙だな。こんな顔、百目鬼、お前見たことあったか?」それは、富樫の笑顔だった。裏階段で、ピースをしながら、心から笑っている顔。関も、百目鬼も黙っていた。誰も、何も言わなかった。「……椎名の遺体は、まだか?」「はい。上がっていません。」「そのことは――」「もちろん、報告書からは削除済みです。彼の名前も、すでに……」「忘れろ、か。」松永は写真を机に戻した。「だがこれは、どうするんですか。笑ってるんです。笑ってるんですよ、あの富樫が。」わずかに感情が滲んだ百目鬼の声だった。三人の間に沈黙が落ちる。関が静かに言った。「記録は消せても、写真は消せないよ。」百目鬼は答えなかった。ーーー県警・公安特課の執務室。書類の束に囲まれた片隅に、一人の男が立っていた。「……片倉さん。」声をかけたのはこの公安特課課長の岡田だった。岡田は彼のことを“班長”とは呼ばなかった。警視庁からこの部署に復帰した片倉に、役職はない。ただの一捜査官として、机も持たず、端末すら与えられぬまま、その場にいる。「……やっぱり、上がっていません。」岡田の声には、ほんのわずかな戸惑いがあった。片倉は、小さく息を吐いた。「ほうか……」それだけを呟いて、目を伏せた。仁川征爾の遺体は、いまだに発見されていなかった。金沢駅での銃撃、爆発、混乱。数多の証言が彼の死を語っていたにもかかわらず――――彼自身だけが、どこにも存在していなかった。沈黙が、公安特課の一角を満たしていた。岡田は、その沈黙を破ろうとはしなかった。ーー石川県庁、19階の展望階――夕刻の風がガラス越しに吹き込み、静かな音を立てている。誰にも知られず、片倉はこの場所に何度も足を運んでいる。遠くに見える金沢駅の方角には、まだ一部がブルーシートで覆われたままのビルがあった。背後で、足音がした。「……お父さん。」振り返らずとも、それが京子の声であることはすぐに分かった。彼女は手に、封筒を持っていた。「書いてきた。ちゃんと、記事にするって言ったでしょ。」封筒の中には、数枚の原稿用紙。「五の線」とだけタイトルが記されていた。彼は、ほんのわずかだけ眉を動かし、問いかけるように呟いた。「……五の線、か。」京子は少し視線を外し、ガラスの向こうの夕焼けに目をやった。「熨子山連続殺人事件。佐竹、村上、赤松、一色、鍋島。あの五人を結ぶ“線”が、この物語の原点でした。」片倉は黙って頷いた。「でも――書いていくうちに、別の意味が見えてきた。人と人との響き合いとか、沈黙が交差するとか……まるで五線譜みたいに、誰かの行動が、誰かの選択と重なって、一つの旋律になっていく。」「旋律……。確かに、一人だけじゃ成立しない音もある。」「うん。これはきっと、最後の音。だから、書いて残すしかない。誰かに伝えるために。」片倉はゆっくりと視線を彼女から外し、窓の外に目をやった。そこには、夜の気配を帯び始めた金沢の街が広がっている。「……忘れられる前に、か。」「そう。」そう言って、京子は再び原稿を手に取った。その筆跡は、揺れていたが、力強かった。そして、彼女の言葉は続いた。「仁川征爾が消されたことも。富樫さんの笑顔が、もう見られないことも。古田さんが、もうここにはいないってことも。」京子はそこで言葉を止めた。少しだけ視線を落とし、唇がわずかに震える。「……それに、周が……」声が喉の奥で詰まった。一瞬、彼女は父のほうを見たが、すぐに視線を外した。「……全部、忘れられないように……書いておきたかった……。」片倉は静かに頷いた。その頷きには、かつての捜査官としての顔も、父としての顔も――確かに、あった。沈黙が落ちる。だが、それは決して重苦しいものではなかった。やがて、京子は小さく息を吐き、笑った。「……おかしなタイトルだけどね。」「いや。悪くない。」片倉の短い返答は、何よりも肯定の色を帯びていた。「載るのか?」「うん。“チャンネル・フリーダム”の特集で。会員限定になるけど、公開はする。」片倉はそれを受け取らなかった。京子も差し出すのをやめ、そっと胸にしまった。「誰も読まないかもしれない。読んだって信じないかもしれない。それでも、書くしかないと思った。」片倉は静かに頷いた。「……仁川の名前は?」「出さない。でも、わかる人にはわかる。」「……そうか。」沈黙。しばらく、二人は並んで空を見ていた。西日が傾き、庁舎の影が長く伸びていく。「……あの戦場で、どれだけの人間が命を落としたか……」ぽつりと片倉が言った。それは、誰という名指しではなく、敵も味方も区別のない言葉だった。「国がどう記録しようが、どう忘れようが、んなもんどうでもいい。でも――俺たちだけは、忘れたらいかん。」京子は、わずかに頷いた。「行くわ。まだ編集、残ってるから。」「うん。」京子は踵を返した。その背中に、片倉は声をかけなかった。彼の視線は、いまだ遠くの空にあった。...more18minPlay
October 03, 2025210 第199話「沈黙を編む手」このブラウザでは再生できません。音楽堂の裏手――濁流がかすめた低地に、まだ泥の匂いが残っていた。京子は、崩れた階段の縁に腰を下ろしていた。脚には乾きかけた泥がつき、掌には黒いスマートフォンが握られている。画面は割れていたが、電源は入る。その端末は、相馬の遺品だった。押収されていたその携帯が、自分のもとに戻ってきたのは、ほんの数十分前のことだ。ーーー背後に気配を感じた。振り返らなくても、足音で誰かは分かった。「……冷えるな。」父の片倉肇だった。二人の間に言葉はなかった。しばらくして、京子がぽつりと口を開いた。「……警察官だったんでしょ。周。」片倉の目がわずかに動いたが、肯定も否定もなかった。「バイトなんて、嘘だって……最初から分かってた。あの人は携帯を机に置かないし、時間にはやけに神経質だったし。」「……。」「お父さんと同じでさ。たぶん、公安とか、そういう類の仕事なんだろうなって。なんとなく、わかってたんだ。……でも、訊けなかった。訊いたところで、答えないだろうしね。」その言葉に、片倉の頬がひくりと動いた。京子は苦笑を浮かべた。「だけど、まさか……。本当に死んじゃうなんて…。」彼女の手はかすかに震えていた。「なにもかも伏せたまま……。そんなのって、ある?」片倉はゆっくりと、上着の内ポケットからビニールに入ったスマートフォンを取り出した。それを静かに、娘の膝の上に置く。「これはお前が持っとれ。」京子は言葉もなくそれを受け取った。「相馬の携帯には重要な情報がはいっとるはず。ほやけど全部流された。もう見つからんやろ。」京子の肩がひとつ震えた。「お父さん……。」手のひらを見せて片倉は彼女の言葉を遮った。感情を削ぎ落としたその手は、どこか震えていた。京子は唇をかみしめながら、スマートフォンの画面を撫でた。泥で濁っていた瞳が、わずかに潤んだまま、遠くの空を見つめる。「お父さん。あの人が命を賭けたこと……私、全部は知らない。でも、これから調べる。書くよ。彼のこと。彼が見たもの、全部。」「……記者としてか?」京子はうなずいた。片倉はそれ以上何も言わなかった。ただ静かに目を伏せ、風の音に身を預ける。彼の頬を伝った一筋の水は、泥の筋ではなかった。ーーー階段の陰――黒田は、京子と片倉親子の背中を遠くから見守っていた。あのとき、黒田は声を上げられなかった。相馬が仁川に撃たれる刹那の悲痛を、ただ記憶に焼きつけることしかできなかった。今、その恋人とその父が向かい合っている。言葉のない喪失。誤魔化しのきかない現実。黒田は自問した。「俺はあの時、何を見たんだ……。」京子は、もう知っているのだろうか。相馬を撃ったのが、あの仁川征爾だと。もし知らないのだとすれば――その「記録」は、彼女が辿り着くべき物語なのかもしれない。自分はただの見届け人でいい。それが彼の、記者としてのけじめだった。彼は京子らに背を向け、空を見上げた。ーーーテレビの画面には、茶色く濁った水の中を歩く自衛隊員たちが映し出されていた。「第14普通科連隊の活躍が市民を救った」テロップがそう踊り、画面はカットを切り替える。女性自衛官が泥まみれの子どもを抱きかかえ、避難所に駆け込む。その背中に、カメラのズームが寄る。「被災地に寄り添う自衛隊」――局アナの声がかぶさる。テレビもネットも、そればかりだった。陸自提供の映像は、編集された英雄譚となって各局に流れた。音楽堂での戦闘、鼓門前の銃撃、瓦礫の山の裏側――そこにいた特殊作戦群の姿は、どこにもない。彼らの存在は、放送では“空白”として処理された。公安特課についても「警察関係者の協力のもと」との一文だけが読み上げられる。相馬の名も、椎名の名も、当然ながら一度も出てこない。「今回の事態に対して、政府は迅速に対応しました。」官房長官・櫻井は記者会見でそう言い切った。「民間人への被害を最小限に抑えることができた。作戦は成功裏に終わったと評価しています。」用意された原稿を読み上げるような口調だったが、記者席から反論の声は上がらなかった。その後、ホワイトハウスからも声明が出された。「日本の統治機構の成熟と連携に最大の敬意を表する」We express our utmost respect for the maturity and coordination of Japan’s governance system.米国報道官による読み上げだったが、テロップには“大統領の発言”と表示された。首相会見の原稿、テレビ局の報道順、SNSのトレンド整理――そのすべての裏で、ひとりの男が静かに動いていた。内閣情報官、上杉靖は会見場には姿を見せず、報道には一切登場しない。だが、首相が発した言葉の一字一句、テレビ局のテロップの色味、番組構成の順番に至るまで――すべては、彼が数時間前に差し替えた“最新版のファイル”に準じていた。総理の演説台に置かれた原稿。メインキャスターが読む一行目。報道番組が流すVTRの開始時間とその長さ。そのすべてが、上杉の掌にあった。ネットでは、SNSの火消し部隊がすでに動いていた。#自衛隊ありがとう、#外交勝利、#米国と共に――それらのタグをトレンド上位に押し上げたアカウントのいくつかは、某省広報部の職員が個人名義で運用していたものだった。「特殊作戦群」の名は、いかなる資料にも記されなかった。映像資料も消された。上杉の指先は、次の「演出プラン」へと滑っていた。いまこの国に必要なのは、真実ではない。「国民が安心する筋書き」だった。ーーー同じ頃――政府専用機が羽田を離陸し、ツヴァイスタン人民共和国に向かっていた。搭乗していたのは仲野特命担当大臣。同行には、内閣情報調査室の関、公安特課の松永。目的は、事態収束後の外交的整理と、拉致被害者の帰還交渉だった。ツヴァイスタンは核保有国である。もしプリマコフ中佐の特別軍事作戦が成功していれば、軍政派がその勢いで核の恫喝に踏み切る可能性すらあった。それを事前に察知していた文民派の外交官エレナ・ペトロワと情報将校イワン・スミルノフは、作戦前から中国に根回しを進めていた。「作戦が決行された場合、中国は黙認すべきではない」かつての宗主国ロシアではなく、現在のパワーバランスの中で睨みを効かせるべき相手は中国だと彼らは見ていた。結果、作戦は日本の地で失敗し、プリマコフは戦死。軍政派は失策の責任を問われ、中国の圧力の下、核使用の選択肢を失った。求心力を喪失した彼らに代わり、文民派が主導する「国民和解臨時政府」が発足の動きを見せていた。仲野一行は、この臨時政府の首班アレクセイ・コズロフと極秘会談を行う。記者団の同行はなく、会談の詳細は公にはされなかった。ただ一つ、外務省が公開した一文のみが、ニュース原稿に載った。「ツヴァイスタン国民和解派は、プリマコフによる軍事暴走を正式に断罪。拉致被害者全員の即時帰還を日本政府に約束した」この一文が、事件の幕を引いた。誰もがその言葉を信じたわけではない。しかし、それを疑う余裕を、誰も持っていなかった。ーーー永田町――首相官邸。地下の執務エリアには、夜遅くにも関わらず数人の関係者が残っていた。会見を終えたばかりの櫻井官房長官は、背筋を正したまま、給湯室で一杯の白湯を口に含んでいた。手にしたマグカップには、「為せば成る」の文字。広報室の若手官僚たちが、小声で話している。「ネットの空気、完全に変わったな」「外務省、ようやく点取った感じだな」「てか、官房長官の読み……全部当たってるんだよな……」誰かが、つぶやく。「――櫻井は、次の総理だな」部屋の空気が、ほんの一瞬だけ静まった。その沈黙の中で、誰も否定しなかった。誰もが同じ予感を抱いていた。櫻井は、マグカップをそっと置いた。何も言わず、会釈だけを残してその場を離れた。誰かの指示ではない。ただ、そうなる流れが、もう動き始めている。官邸は、それを知っていた。ーーー次回、最終話。...more16minPlay
September 19, 2025209 第198話「水の檻」このブラウザでは再生できません。雨は弱まる気配を見せず、泥水はゆっくりと、だが確実に音楽堂の階段を飲み込もうとしていた。仁川征爾と片倉。その間に流れていたのは、ただの水ではない。泥濘に沈んだ死者たちの重みと、ぶつけられることのなかった問い、語られなかった復讐。睨み合う両者の呼吸だけが、時の進行を遅らせていた。拳銃にかけた手が、片倉の腰で静かに止まっている。仁川の指も、拳銃のグリップから外れない。――張り詰めた均衡。だが。その均衡が、ある足音によって、わずかに崩された。「すみません、通ります――」声は、柔らかく、はっきりしていた。靴が泥を蹴り、雨を切って階段を上がってきた一人の女性。山県久美子。左腕に子どもを抱え、右手には毛布を握りしめていた。ぬかるんだ足元に気を配りながらも、彼女の歩みは止まらない。それは助けを求める者のもとへ、何度も歩んできた者の、それだった。そして、その歩みは――仁川と片倉、二人の間を、まるで“何も起きていない”かのように、すり抜けていった。仁川が動きを止める。子どもを抱きかかえ、通り過ぎる久美子の肩越しに、彼女の目が一瞬だけこちらを見た。感情のない瞳だった。怒りでもなければ、拒絶でもない。“ただ見る”だけの目。まるで、そこに「誰もいなかった」かのように。だが、その視線は――仁川の内部に、静かな異変を生んだ。(……なぜ、あの女は……俺を“見なかった”)彼は、罵倒されることも、叫ばれることも想定していた。だが、無視された。否――“存在しない者”として、通り過ぎられた。仁川の拳が、わずかに震えた。片倉もまた、久美子の姿に気づいた。(……山県…久美子…)濡れた髪、泥の跳ねた衣服。だが彼女は、誰よりも“まっとう”にこの場にいた。泥にまみれ、命を抱え、ただ黙って現場を動かしている。一方で、目の前にいる男は、誰かを救ったことがあるか――問いが浮かぶ。そして、いつの間にか片倉の手は、拳銃から外れていた。その瞬間、イヤホンから神谷の声。《……射線、保持中。どうしますか》片倉は応えなかった。仁川も、もはや構えず、ただその場に立ち尽くしていた。泥と雨の中。男たちの対峙は、声なき者によって――解かれたのだ。山県久美子の足音が、泥水を跳ねながら遠ざかっていく。抱きかかえた子どもの体温が、仁川の皮膚の記憶を揺さぶった。何も言わず、何も問わず、ただ通り過ぎたその背に、誰もが口を噤んだ。片倉の拳銃は、腰のホルスターに戻っていた。(……なぜ、俺は……撃たない?)明確な答えはなかった。怒りも、憎しみも、確かにそこにあったはずだ。だが今、それをぶつけるべき理由が、手の中から滑り落ちていた。(……この男は、いったい何をした? 相馬を殺した? トシさんを謀(たばか)った? 確証はない。だが……)そこにある仁川の目は、あまりにも空虚だった。責任を取る意思も、後悔もない。それどころか、正当化すらしていない。ただ、淡々と――まるで「世界そのものに否を突きつける」ような、純粋な破壊の眼差し。(……こんな相手に、俺は何を求めてるんだ?)片倉は、自問していた。制裁か。報復か。あるいは赦しか。だが、どれもピンとこない。一方、仁川もまた――自分の中に芽生えた“小さな違和感”に気づいていた。(……あの女…。俺はあいつに“何者”として映ったんだ?)視線すら寄越さなかった山県久美子。彼女の中に、自分は「存在していなかった」。それは侮辱ではなかった。“何者でもないもの”への、無関心。(……俺は、ここまでしても……“ただの通行人”か……)血も、死も、裏切りも、すべてを背負ってここに来た。だが、通り過ぎたその瞳に、自分の姿は――なかった。(……俺の価値は、何だった?)一瞬、仁川の顔がわずかに歪む。それは怒りではなく、空洞を覗いた者の表情だった。その時。無線が鳴る。《……こちら神谷。片倉さん、緊急。南排水区の水門が決壊。浅野川第三系統の流入が始まってる。》片倉が眉をひそめる。《あと5分で東口の広場に水圧が到達。最大で胸元まで一気に来る。搬送と人員を退避させないと、ここが“飲まれる”。》「……!」片倉は即座に顔を上げた。音楽堂の階段の下、濁流がすでに高さを増している。「岡田、全隊に伝えろ。撤退だ。全員を高い場所に即刻移動だ。」《了解!》救助ラインの隊員たちが、慌ただしく声を交わし始める。ゴムボートが水を跳ね上げ、ストレッチャーが泥にまみれて浮かぶ。雨は止まない。だが、この場に留まれば、間違いなく全員が沈む。仁川は片倉を見た。片倉も仁川を見た。言葉はなかった。互いに“もう何かを決する状況ではない”ことを、理解していた。これはもはや、個の対峙ではない。自然そのものが、全ての帳尻を合わせに来たのだ。――終幕は、個の意志でなく、“水”が引く。片倉は短く息を吸った。そして、雨の帳の中で、静かに背を向けた。仁川もまた何も言わず、それを見送る。背を向けあいながら、二人はそれぞれの場所へと、歩き出す。次に会う時があるとすれば――それは“誰か”が、“選ぶ”のではなく、歴史がそうさせる瞬間かもしれなかった。音楽堂建物の外――西側搬入口から怒号が上がった。「水が……水が入ってくるぞッ!!」「搬出中止!残り全員、上階へ避難しろ!」館内の床を這っていた泥水が、一気に膝まで跳ね上がった。まるで下から突き上げるような水圧――水門が破られた証拠だった。その泥濘の中、その場に戻ってきた山県久美子は咄嗟に傍らのストレッチャーから子供を抱き上げた。「この子は……私が連れてく!」もう片方の腕で、荷物のように濡れたブランケットを押さえ、靴が泥に取られそうになる足を踏み込んで、西階段を目指す。「お母さん、こっちよ!」森が叫んだ。久美子の数歩後ろ、彼は母親と思しき女性の手を引いていた。濡れた手は滑りそうになるが、それでも握力は離さなかった。後方では、壁を押し破るような水が廊下を飲み込んでいく。瞬く間に館内の照明がばちばちと火花を散らし、音楽堂は崩れかけた舞台装置のように不安定な音を立て始めた。「急いで――もう持たない!」階段の踊り場を駆け上がる久美子の腕には、まだ幼い子どもがしっかりと抱かれていた。そのすぐ後ろ、森が母親の手を強く引きながら、怒鳴った。「足、止めるな!」彼らの足元まで濁流が迫った瞬間――水面が爆ぜるように階段下まで一気に水が駆け上がる。だが、彼らの姿はすでに一段上に飛び移っていた。久美子が振り返ると、森は母親を庇うようにその背を押しながら、上へとさらに一段跳ね上がっていた。間一髪だった。ーー「……流れ来るぞ!水圧、今までとは違う!」誰かの叫びが轟いた次の瞬間、南東の方向から――水が“駆けてきた”。堤防の決壊によって生じた“第二波”の水流が、駅前の広場へと怒涛のように雪崩れ込んだ。水門が破られたのだ。それは濁っていた。重たく、速く、圧倒的だった。「掴まれ――ッ!」自衛隊員の怒号。ボートが煽られ、担架が流れ、警察の隊員が壁に叩きつけられる。音楽堂前の舗装は、もはや“道”ではなかった。水面があらゆるものの重さを無化し、ただ沈めていく。瓦礫の山も、鉄骨の柱も、計画された指揮系統すら、あっという間に無力化された。「負傷者を優先しろ!自衛隊は北ルート確保や!」「階段はもう使えん!地上は引け、裏へ回れッ!」片倉の怒号が無線越しに飛び交う。岡田が手旗を振り、消防と機動隊が無言でロープを回す。だが――あまりにも水が速い。あと数分で、すべてが沈む。“人”という存在が、抗うにはあまりにも脆すぎる流れだ。そのときだった。その流れに逆らい、ただ一人、立ち尽くしている者がいた。仁川征爾――椎名賢明。先ほどまでの“破壊者の貌(かお)”は、そこにはなかった。彼は振り返らなかった。片倉も、岡田も、誰も彼を呼ばなかった。仁川自身も、誰にも言葉を向けなかった。彼はただ、“水”のほうへ、進んでいた。地上に続く階段の中腹、崩れた外壁の際。水が足元を巻き、腰を越え、肩まで迫る。だが仁川は、歩くことをやめなかった。迷彩服の裾が浮き、拳銃が濁流の中に沈む。そのとき、仁川の目が、ふと天井――どこにもない空の彼方を見た。何かを悔やむようでも、誇るようでもなかった。ただ――「……ようやく、“帰れる”」誰にも届かない独白だった。次の瞬間、音もなくバランスを崩し、その身体は濁流に呑まれた。「……今の、見たか……」岡田が呟いた。片倉は返さなかった。どこか遠くで警報が鳴っていた。雨の音はもう聞こえなかった。残されたのは、静けさではなかった。怒涛のような“空白”だった。あの男は、何をしにここに来たのか。破壊者か。罪人か。あるいは、最初から“いなかった”のか。ただ、誰かの記憶の中にだけ、泥に沈む彼の背中が刻まれていた。そしてその夜――一匹の濡れた獣が、名もなく水底へ還った。...more21minPlay
September 05, 2025208.2 第197話「濡れた獣」【後編】このブラウザでは再生できません。濁流が足首から脛へと水位を上げる中、音楽堂の前では自衛隊と消防、警察機動隊による救助活動が次の段階へと入ろうとしていた。避難者の大半は地上へと搬出されつつあり、ゴムボートは最後の巡回に入り、担架も尽きかけていた。誰も気づかない、雨の帳の奥――濡れた舗道の向こうから、一つの影が水を踏んで歩いてきていた。ざぶ……ざぶ……それは“ゆっくり”だった。焦る様子はない。疲労の色も、躊躇もない。ただ、決定された一歩を順番通りに進めるかのような律動。軍靴。迷彩服。右手には拳銃。左手は垂れ下がり、指先から血が滴っていた。目は何かを見ているようで、何も見ていなかった。仁川征爾――椎名賢明。「……!」片倉が、救護区画の指揮卓越しにその姿を見つけたのは、偶然ではなかった。あまりに自然に、その男は戦後の静寂の中へ入ってきた。あまりに静かに、“何かを終わらせに来た者”として。次の瞬間、片倉の背に氷のような感覚が走る。(……殺気じゃない。違う。……死)あの男は、もう人間の顔をしていなかった。「……岡田、視線を逸らすな。あそこだ。……来てるぞ」岡田もすぐに目で追った。その男が誰かを認識するのに、一秒もかからなかった。「……椎名………!」片倉は無言でイヤホンマイクに触れた。声は低く、だが震えてはいなかった。「神谷、聞こえるか。片倉だ」片倉のイヤホンに、混線気味の通信が入る。《……こちら神谷。広場南端より音楽堂前を視認中。……目標、確認できた》片倉はぬかるんだ地面に視線を落としたまま、静かに答える。「狙撃体勢に入れ。ターゲットは仁川征爾――SATコード“椎名賢明”だ」一拍置いて、神谷が重く言う。《……射線は取れます。距離およそ300。遮蔽物なし。指示を》片倉の瞳がわずかに細まる。目線の先、濁流と泥に塗れた音楽堂の搬送ライン、その先。水を蹴り、ゆっくりと歩いてくる――その姿。あれは、もはやただの一兵士でも、ただの亡霊でもない。仁川征爾。椎名賢明。いずれの名を呼ぶにせよ、これは“向き合わねばならぬ存在”だった。片倉は口元を引き締め、無線に言った。「……撃つな。まだだ」《了解。射線保持。引き金は片倉さんの合図で》片倉は応えなかった。ただ、泥水を踏みしめ、ゆっくりと前へ歩き出す。顔を上げ、真正面から仁川を――一度は公安に名を連ねた者を――迎え撃つために。雨は弱まる気配を見せない。だが、音楽堂前に立つ二人の男の間だけは、まるで時間が止まったかのようだった。濁流を踏み分け、泥にまみれながら――仁川征爾はまっすぐ歩いてきた。その足取りに迷いはない。消防も警察も、自衛隊も、誰もが道を譲った。誰もが、彼が「ただ事ではない存在」だと直感していた。片倉は、真正面から彼を見据えていた。腰には拳銃。だがまだ抜かない。その手が震えていたのは、寒さのせいではなかった。(……相馬……)名前を思い浮かべるだけで、喉が焼けるようだった。あの男は、相馬を殺した。きっと、古田も、富樫も、奴の計画に巻き込まれて死んだろう。あの目が、あの“冷たい歩き方”が――自分はどうにも許せない。片倉の胸が、怒りと悔しさで破裂しそうだった。(……なんて人間や……)人を喰い物にし、国家を揺るがせ、そして今、何事もなかったかのようにこの場に現れる。ただの犯罪者ではない。これは――絶対悪だ。国家の法と秩序に、最後まで喰らいついたまま沈んでいく獣。目の前にいる、それはもう“誰か”ではなく、片倉にとっての「存在してはならないモノ」だった。仁川も、片倉を見ていた。その瞳は、憎しみとも怒りとも違う。ただ、焼けた鉄のような激情がそこに沈んでいた。(……そうか。あんたか。あんたがここで出てくるか。)「なにかきっかけでもあったんですか?片倉さんが覚醒する。」「ありました。」「それは。」「ひとりの警察官の死です。」「警察官の死?」「はい。当時、片倉班長は捜一の課長でしてね。その直属の上司である刑事部長が亡くなったんです。」「刑事部長って結構上の役職なんじゃないですか。」「はい。そのお方は警察幹部でありながら、自ら現場に乗り込んで指揮を執る極めて希な存在のキャリアだったんです。それが結果的に事件に巻き込まれて…。」「それは…。」「その事件も、6年前の朝倉鍋島事件も結局のところツヴァイスタン由来です。そこに今回のテロ予告。ツヴァイスタンは我々にとっても決して組みがたい存在です。」157片倉の顔を、仁川は見据えた。(……俺は、お前らに――政府に、見放された)誰も助けなかった。誰も呼びかけなかった。指示も命令もない。干渉もない。ただ、何も関わらず、黙って“放置”されてきた。(指図されるほうがまだマシだった。せめて何かしろと命じられれば、まだ道があった)けれど、国家は沈黙を選んだ。見殺しにし、都合が悪ければ目を逸らし、還ってきても“いなかったこと”にされた。(だから俺は、すべてを自分の力でやってきた。やらざるを得なかった。)日本の裏にある、見えない世界。そこで生き残るために、裏切り、殺し、欺いてきた。それが今――(お前みたいな存在が……仲間が数名、数十名死んだくらいで、顔を歪めて見せるのか)怒り?悲しみ?それがどうした。何の覚悟もない者たちが、国家を語り、正義を語る。仁川の目が、わずかに細められる。(くだらん……)心の底から、そう呟いた。それだけで十分だった。その言葉を、片倉ははっきりと聞いたわけではなかった。だが、その目――仁川の目がすべてを語っていた。片倉(くだらん、か……)鼓膜の奥に残るような響きが、片倉の中の何かを引き裂いた。片倉の眉間に深い皺が刻まれる。こみ上げてきたのは、怒りだった。個人的な感情ではない。だが、それは確かに「私情」だった。片倉(俺も相馬も、トシさんも、マサさんも――全部、こいつの掌の上やった。俺らは踊らされて、ただ死者を積み上げた…)正義を掲げるでもなく、革命を語るでもない。ただ、自分が見捨てられたという理由で、何もかもを巻き込み、焼き払い、破壊していく男。目の前の仁川征爾――椎名賢明。その姿は、片倉にとって紛れもないこの国が育て、見捨てた呪いだった。片倉は口を開かない。罵倒も詰問も、ここでは意味をなさないことを理解していた。片倉(問うだけ無駄か。こいつはもう、どこにも帰る場所なんてないんだ)空気が重くなる。雨の中に、互いの体温が沈んでいく。仁川はわずかに顎を上げ、嘲笑のような目つきで片倉を見返した。まるで、“それで終わりか”と言いたげに。だが――片倉は、その目を逸らさなかった。次の瞬間、無線から微かな声が流れた。《……片倉さん、応答を。狙撃可能位置、確保済み》それは神谷の声だった。ただし、すぐに引き金を引けという圧はなかった。片倉は静かにイヤホンに触れ、短く答えた。「……待て。まだだ」仁川の眉が、わずかに動いた。それは警戒ではなかった。どこか、驚きに似た微かな揺らぎ。(撃たないのか?)仁川の中に、初めてわずかな“誤算”が生まれていた。片倉は歩み寄る。泥に足を取られながら、真っ直ぐその男の前へ出る。二人の間にあるのは、濁流の音と、瓦礫と、怒りと、失望。そして、名を呼ぶ者のいない“帰れぬ者”たちの影だった。――だが、その均衡も、次の一歩で崩れるだろう。...more18minPlay
September 05, 2025208.1 第197話「濡れた獣」【前編】このブラウザでは再生できません。一発の狙撃が、戦場の均衡を崩した。プリマコフ中佐の体が膝をつき、泥濘に崩れ落ちたその瞬間、まるで濁った水の上に立つ紙の塔のように、人民軍部隊の指揮系統は一気に瓦解した。ドームの骨格だった鉄骨の影から、散開していたツヴァイスタン兵たちが一斉に動きを止めた。彼らが見ていたのは、倒れた男の背ではない。崩れた「秩序」そのものだった。一人、また一人と銃を捨てる音が聞こえる。命令は来ない。誰が敵で、誰が味方かも、もうわからない。間を置かず、アルミヤプラボスディアの残存隊も身動きを止めた。トゥマン部隊の小隊長ベネシュは、後退の指示を出す前に、沈みゆく広場を見渡して唇を噛んだ。眼前に展開するのは、機械のように連携する自衛隊第14普通科連隊と、影のように移動し、敵の背後を突く特殊作戦群の隊員たち。その“練度”は、もはや戦争の経験差では埋まらない領域だった。降伏――それは戦士にとって屈辱だ。だが、あの雷鳴のような銃声が響いた瞬間から、彼は理解していた。「これは、“格”が違う」と。ベネシュは静かに頭からヘルメットを外し、銃を掲げ、瓦礫の上に立った。戦闘は、終わった。否、正確には、“終わらされた”。上空から続く豪雨が、すべてを洗い流し始めていた。浅野川の氾濫によって、駅前の広場はすでに腰まで水が迫る泥の沼と化していた。倒れた装甲車は波間に沈み、標識は折れ、砂利混じりの水がかつての舗道を侵食していく。雷鳴の代わりに鳴るのは、濁流が街路に押し寄せる低い地鳴りのような音。──人の力では、もはや止められない。兵も、戦術も、理念も、この自然の前ではあまりに脆い。特殊作戦群・群長黒木為朝は、双眼鏡を下ろし、濡れた面前のマップに指を置いた。「ここまでだ」その呟きが、戦場に残ったすべての“戦士”に届いたかのように、銃声は以後一度も鳴らなかった。ーーーー泥濘と化した広場には、膝下まで水が溜まり、歩くたびに「ざばっ」「ぐしゃ」と濁った音が周囲に響いていた。雨は依然として叩きつけ、重たい水の膜が視界を滲ませる。建物基礎の段差を越えて、泥水がじわじわと館内に浸入しはじめていた。現場には警察、消防、自衛隊が入り乱れ、担架とストレッチャー、ロープと声が交錯していたが、誰の指揮下で動いているのかが曖昧になりつつあった。「消防が中から搬出中!警察とバッティングしてる!」「そっちはダメだ、地下から水が――!」雨音、濁流音、怒声。何が誰の声か、すぐにわからなくなる。そんな中――ざばっ、ざばっ、と水を踏み分けながら、一人の男がゆっくりと現れた。公安特課・片倉だった。背に泥を弾いた防水ケープ、顔は仏頂面。だが、視線は鋭く、周囲の全景を一瞥しただけで把握した。泥水に脚を取られながらも、彼の動きには微塵も迷いがなかった。後ろから追ってくるのは岡田。若いが、すでに何度も修羅場を共にしてきた。「現場、混乱状態です。」岡田の報告に片倉は頷き、ざばりと一歩踏み出す。その長靴の周囲で水が円を描いて飛び散った。「岡田、後方のルートを消防と調整しろ。隊列を分ける」片倉は無線を取り出し、短く言葉を飛ばす。「こちら片倉。機動隊第三小隊、ロープ通路を北口へ。担架は南側車寄せに転回。自衛隊はゴムボートを東端へ。消防は西壁側で負傷者搬出支援に集中。混成指揮系統は、今からこっちで取る。」一瞬の沈黙。「……消防了解!指示に従います!」「自衛隊、了解。」即座に現場が動いた。さっきまで互いの動きを邪魔していた部隊が、まるで図面の上の兵棋のように機能し始めた。岡田が隣で呟いた。「すごい……。」その言葉に返事をせず、片倉は視線を上げる。ふと、階段上から人を支えて上がってくる女性の姿が目に止まった。泥にまみれたカーディガン、濡れた髪、しかしその瞳は一点を見つめてぶれなかった――山県久美子。彼女の姿に、片倉の記憶がざわついた。(……なんで……また…ここで……。)熨子山事件、鍋島事件につづいて今また、ここに彼女はいた。岡田も気づいたようだった。「……なんで……山県久美子?」しかし彼女は彼らの視線に気づかない。階段を上がった先で、子どもを担いだ母親に毛布をかけていた。彼女にとっては、ここは単なる災害現場。誰の目を気にすることもなく、人を助ける現場。それだけだった。片倉は無言で目を伏せた。(……偶然か? いや――)足元で水がざぶりと揺れた。何かが深層でつながっているような感覚があった。だが、今はそれを深く追う時ではない。片倉は再び無線を取り、冷静に現場へと声を投じた。「搬送完了数、報告しろ。ローテーション中の隊員は交代。地下階段の水位、あと15分で限界だ。急げ」彼の言葉が、混濁の場に再び秩序をもたらしていく。雨はまだ降り止まない。ーー...more9minPlay
August 22, 2025207.2 第196話「還るもの」【後編】このブラウザでは再生できません。(……来たのか)椎名の胸の奥で、何かが軋むように揺れた。(……来るべきじゃなかった。)ボストークで、ちゃんフリで、軽く冗談を挟みながら、過剰な距離も取らずに接してきた彼女。女でもなく、敵でもなく、“ただの相棒”として、淡々と接してくれた存在。(……お前は俺を“人間”として扱ってくれたっけ…)濁った水音の中で、椎名の視線が、京子から離れなかった。一歩前に踏み出した彼女の姿が、波紋を生んだ泥濘に揺れる。その目は焦点が合っていない。だが、明らかに京子を“視て”いた。――その瞬間、椎名の内側で、ある“異変”が起きていた。(……お前の恋人を、俺は……)そう思った瞬間、自身の胸の奥で、何かが軋んだ。(……俺は“なぜ”この女の目に、“喪失”を見た? なぜそれが、相馬という名前に結びつく?)脳が追いつかないまま、言葉だけが先行していた。ただの“記憶”ではない。思い出せるはずのない情報が、まるでどこかから滑り込んでくる。目の前の女性――片倉京子。その表情、その立ち方、その瞳に浮かぶもの。それが“誰を失った女の瞳か”など、知るはずもない。だが確かに、椎名の内部で何かが繋がった。(……まただ……この感じ……)無意識のうちに、椎名の右手が自分のこめかみに触れていた。そこには、かつて受けた“ある処置”の痕がある。金属片のような感覚。眠れぬ夜の圧迫感。情報ではなく、“感覚”が流れ込んでくるような、奇妙な現象。(……記憶じゃない。……)仁川征爾としての過去。ツヴァイスタンでのあの研究棟。鍋島能力。視線による一瞬のトリガー。対象の内部情報の“断片”が、こちら側に滑り込んでくる。それは能力ではなかった。むしろ、制御不能な呪いのような“代償”だった。(……そうか。俺は“見てしまっていた”のか……)京子の視線を受けたことで、彼女の内部に眠る記憶――相馬周との関係、その喪失、そしてまだ言葉にされていない痛み――が、椎名の中に、わずかに浸透していた。その思考の最中――黒田が小さく声を漏らす。「……仁川、お前……」だが、その続きを言うことはなかった。椎名の目に、京子が真っすぐこちらを見つめる姿が映る。彼女の目の奥に宿るのは怒りか、困惑か、あるいは――哀しみか。(俺は、いつのまにか“視られていた”のかもしれん……)彼女の瞳に宿る静かなもの。それは、憎しみでも怒りでもなく――問いだった。何のためにここに立ち、誰を見つめ、何を知ろうとしているのか。その“問い”の正体が、椎名の中にわずかに侵食してくる。その瞬間、ふと――(……相馬……)名前が、頭の奥でこだました。思わず眉が動く。(……なぜだ……?なぜ、この名前が……)声に出してはいない。だが、確かに思考の中に“それ”があった。さっきから、どこかで耳にしたような響き――だがそれは“記憶”ではない。明確に聞いたことはないはずなのに、まるで染みついているかのように、自然とそこに浮かんできた。(……京子と共にいた男。……彼女の目の奥に、残っている男の影……それが、“相馬”……)彼は考える。(これは……俺の記憶じゃない。……感情の残渣――)そうとしか、説明がつかなかった。(俺は誰かの記憶を“引いた”のか……)椎名は唾を飲み込んだ。かすかな眩暈とともに、冷たい汗が椎名の背を伝う。(……お前の恋人を、俺は……)彼の視線が揺れる。続けて椎名はぽつりと呟いた。「……相馬……」――京子の心臓が止まるかと思った。一歩、二歩、にじり寄るように進む。聞き間違いかと思った。だが、確かに彼の唇が相馬の名を形作った。「今……なんて言った……?」京子の声が震えた。黒田が息を呑む。(どうして……? 周の名前をこの人が……?)混乱と恐怖の中に、この場にいる者の皆が言い知れぬ違和感を覚えた。黒田がようやく言葉を絞り出した。「京子……こいつは……」言い切れなかった。言えるはずがなかった。京子の目に、黒田の沈黙が映った。そして、再び椎名の視線が京子に向けられる。罪悪感でも、懺悔でもない。ただ、“何か”を確かめるような目。「あなたは……誰?……なの……」京子の問いは、鋭くもなく、責めるようでもなかった。ただ、“答えを求める声”だった。――それが、何よりも残酷だった。(俺は、誰だ……?)椎名の内側で、記憶と認識がせめぎ合っていた。自分は仁川征爾。だが同時に“椎名”でもあった。記憶の底に、もう一人の自分がいる。その声が、目が、手が、次第に干渉してくる。椎名は黒田へと目を移す。黒田は、椎名を怪訝な顔つきで見つめていた。口を開くこともなく、まるで何かを計るように、その視線はじっと動かなかった。次に、吉川。こちらも無言のまま、椎名と京子の間に漂う張り詰めた空気を感じ取っていた。眉間に微かなしわ。射撃の緊張ではない、人間関係への警戒。拳銃に手をかけることもせず、だがいつでも動ける姿勢で、距離を保っていた。そして――京子。雨に濡れた髪。泥が染みこんだアウター。それでもその瞳だけは、真っ直ぐ椎名を見据えていた。恐れではない。怒りでもない。そこにあったのは、理解の及ばぬものに対する「覚悟」のような、静かな光だった。椎名の視線が、ゆっくりと周囲に転じていく。舗道の境界は既に消え、水は膝近くまで達しつつある。逆流する水音がビルの隙間で反響し、崩れかけた壁の向こうでは重い物が流されていく音が絶え間なく続いていた。(……長くはもたんか……)雨は激しさを増している。付近の建物ごと押し流されるのも、時間の問題だった。この状況で誰が味方か。誰が敵か。何を捨て、何を拾うか。椎名の身体が、わずかに傾ぐ。水の重さか、罪の重さか。(……終わらせるか……)銃声が響いた。それは、明確な意志を帯びていた。「バンッ!パンッ!」突然の破裂音に、京子は思わず身をすくめた。直後、黒田の右脚に激痛が走り、吉川の脇腹にも熱を感じる。「ぐっ……!」「くそっ……!」二人の体が一瞬沈み、泥の川に膝をついた。撃ったのは仁川征爾だった。表情は冷たく、目だけがどこか、すでに遠い場所を見ていた。「仁川……!何を……!」黒田が叫ぶより早く、椎名は最後の一発を――京子の足元に撃ち込んだ。銃声のあと、泥水が跳ねる。京子は声も出せず、わずかに後退りしながら、ただ椎名の顔を見つめた。「……行け」椎名の声は静かだった。あまりに静かで、雨音よりも遠くに聞こえた。「……邪魔すんな。」黒田は肩を押さえながら睨みつけた。「お前、何をしようとしてる……!」椎名は答えなかった。ただ、空を見上げる。銃を下ろし、濡れた髪を払い、そして言った。「……俺が始めたことだ。終わりくらい、俺の手でやる」その一言に、黒田は言葉を失う。吉川も、拳銃に手をかけることなく、その目だけで椎名を追った。京子だけが、なお問いかけていた。「……あなたは……」椎名は振り返らない。濁流は確実に迫っていた。舗道の境界は消え、泥水は膝を超えようとしていた。崩れかけた壁の向こうでは、救助班が避難者の誘導を続けていた。だが、椎名はそこには向かわない。彼が向かったのは、逆側――瓦礫の奥、最も水かさの増した方向だった。「椎名!!」黒田が叫ぶ。「戻れ!! そんなことしても意味なんて――!」その声に、椎名はようやく一度だけ、後ろを振り向いた。「意味なんて、最初からなかったよ」ただ、そう言った。彼の背中は、決して崇高でも英雄的でもなかった。ただ、ひとつの破滅を引き受けた人間の背だった。濁流に逆らうように、だがどこか“還っていく”ように――その背中は、ゆっくりと沈んでいった。戦場から生まれ、記憶に狂わされ、すべてを壊しながら生き延びた男。その終着点は、泥と血と記憶の海だった。そして、遠ざかるその影に、誰も追いつけなかった。──椎名賢明、あるいは仁川征爾。人間の名を持ちながら、人間ではいられなかった存在の、最後の姿を三人は見た。...more17minPlay
August 22, 2025207.1 第196話「還るもの」【前編】このブラウザでは再生できません。水位が足首を超えた。金沢駅東口へと続く歩道は、すでに道路の面影をなくしていた。下水は逆流し、泥と瓦礫が浮遊し、ゴミ袋と共に正体不明の有機物がぷかぷかと水面を漂っていた。普段なら観光客や通勤客でごった返していた広場は、まるで水底に沈んだ空虚な箱庭のようだった。片倉京子は、足を止めた。深く、ひと呼吸。ザバ……と脛が水面を割る。振り返る者など誰もいない。あたり一帯は緊急安全確保措置で封鎖され、人影はない。いるのは彼女一人と、遠くでサーチライトを照らすUH-60の機影、そして、近づくサイレンの音のみ。と――「……パン……!」乾いた破裂音が、遠くから微かに届いた。銃声。訓練ではない。これは実戦の音だ。その後、間を置かず別方向から複数の破裂音。やがて何かが爆ぜるような轟音が遅れて腹に響いた。京子は、目を細めた。もはやこの一帯は「災害現場」ではない。災害と戦闘とが同時進行する、“二重の危機地域”だった。(……いったい、何が起きてるの……)それは恐怖だった。だが、それだけではなかった。喉の奥にこびりつくような違和感。頭のどこかで、別の何かがゆっくりと顔をもたげる。記者としての勘だった。足がすくんでもおかしくない。だが、京子は前に出た。水浸しの金沢駅へと続く道路。その先に、かつて彼女が何度も歩いた“あの金沢駅”は、もうなかった。──こんなにも、変わってしまった……。その瞬間、ポケットの中でスマートフォンが微かに震えた。画面を見た。胸ポケットからスマートフォンを取り出す。電波は弱く、画面は濡れた指で曇っていたが、それでも確認できた。──GPS確定。画面には、たった一つの点が点滅している。それは、相馬周の携帯が最後に位置情報を発信したと思われる地点。《金沢駅東口・旧商業ビル区画》指先が、自然とその画面に触れていた。雨の音に紛れて、京子は小さく呟く。「……ここに、いるんだね。周……。」《周が死んだ……もう、分かってる。だけど、あの人が命を懸けていた意味を、無駄にしたくない。父さん、あなたが何を知ってるかは聞かない。でも、逃げないで。私も逃げない。だから、今度は一緒に立ってほしい。》192目を閉じ、雨音の中に何かを探すように顔を上げた。風が強まる。髪が乱れる。だが、彼女の目はもう迷っていなかった。遠く、瓦礫の向こうに自衛隊の影が見える。警察の背中もある。照明に照らされて動くその姿の中に、きっと父の姿がある。そう勝手に確信していた。(伝えなきゃ。残さなきゃ。見なきゃ――)彼女は再び歩き出した。沈みかけた歩道を、ひとり。雨が、なおも打ちつける。標識も、歩道も、コンビニの看板も――あらゆるものが濁流に飲み込まれようとしていた。だが、その中で彼女の足取りだけは、まっすぐだった。そのときだった。ビル街の奥。濁流が街路を飲み込む音の向こうに、三つの影が揺れていた。泥に濡れた迷彩服、損壊したビルを背に、ゆっくりとした足取りで歩を進めてくる。京子は一歩、水面を踏みしめる。(……デスク……?)確信だった。遠目でも分かる。あの歩き方、体の傾き、肩の高さ――たとえ想像もつかない装いをしていても、染みついた“像”は揺らがなかった。「デスク!」声が、雨音に削られながら広がる。黒田はぴたりと動きを止めた。顔を上げ、目を細める。「……京子……?」その声に、吉川が一瞬身構え、椎名の肩にかけていた腕を微かに引き寄せた。黒田が京子に駆け寄ろうと一歩出たところで、彼女の視線は――黒田の隣にいた、もうひとりの男に吸い寄せられた。髪は濡れて顔に張りつき、泥にまみれた迷彩服。だがその目は――鋭く、深く、どこか焦点がずれている。(この顔……どこかで……いや、まさか……)思い出すよりも早く、記憶の断片が現れた。「こいつは仁川征爾。椎名賢明なんかじゃない。」189脳裏をよぎる、相馬の最後の言葉。(この人が……仁川……?)息を呑んだ。写真の中でSATの戦闘服を着ていた男とは姿こそ違うが、顔だけは確かに一致していた。だがその男は――黒田と並んでいた。守られるように、寄り添うように。(デスクが……仁川と……?)思考が追いつかない。足が震えるわけではないが、心が揺れた。一方、黒田も同じように驚いていた。(京子が……なんで、ここに……)そして気づく。京子の目が、椎名を見ていることに。そのとき。椎名――いや、仁川征爾が、ぬかるんだ地面に膝をついたまま、京子の顔を見ていた。じっと、無言で。まるで、彼女の存在だけを見つめるために、ここまで辿り着いたかのように。その視線は、冷酷でも、計算でもなかった。...more11minPlay
August 08, 2025206.2 第195話「生者の義務」【後編】このブラウザでは再生できません。大型のモニター群には、浅野川流域の濁流、金沢駅東口の冠水、そして各部隊の無線通話ログが並んでいた。警報の断続音のなかで、状況監視班のオペレーターたちは端末に次々と入力を走らせていた。その中央――防衛班長・佐藤陸将補が、報告書類を片手に首を上げる。「金沢駅周辺、第14普通科連隊・川島一佐からの現地報告。人民軍の指揮系統は既に崩壊。武装集団の戦力も散発的。現在、戦術目標の終了とともに、音楽堂地下に取り残された民間人の救助支援へ転進中とのことです」参謀幕僚の一人が補足した。「特殊作戦群の黒木群長も、現場指揮下にある部隊の一部を南側へスライド。戦線は実質的に収束と見て差し支えありません」佐藤が頷いたそのとき――通信士の一人が振り返った。「官邸より直通回線、入ります!」オペレーターが切り替えた回線の先、壁の大型モニターに官邸地下の危機対策室が映し出され、櫻井官房長官が正面を見据えていた。「防衛省、陸幕聞こえるか。こちら官邸、災害対策本部。もはや軍事状況よりも、金沢市民の安全確保が優先される局面に入ったと判断する。救助支援のため、必要な部隊を即時動員せよ。国は、今、命を守ることに全力を尽くす」一拍の静寂。佐藤は小さくうなずいた。「――了解。第14普通科連隊、及び現地展開中の部隊へ指令を下ろします」画面が切れた後、彼は部下たちに短く命じた。「川島一佐の現地判断、正式に認可。災対法第83条に基づき、災害派遣任務への移行を即時実施。記録は後追いでいい。責任は俺が持つ」情報幕僚が端末を叩き、即座に指令電文の入力にかかる。佐藤は端末越しに金沢の航空映像を見ながら、唇の端を一瞬だけきつく結んだ。「これが“戦後”というやつか……兵隊が、人を撃つ手を止めて、人を運ぶ手に替える。俺たちは、そこまで来た」【官邸】官邸地下の情報対策室。モニターには金沢駅周辺の航空偵察映像と、災害対策本部からの情報が同時に流れていた。浅野川の堤防決壊。駅周辺の浸水進行。もてなしドーム北側の冠水。状況は悪化の一途を辿っていた。「……救出部隊を即時展開させます。自衛隊だけでは足りないわ。警察と消防の責任も示さねばならないわ。」櫻井官房長官が静かに言った。決断は一瞬だった。即座に上杉情報官が手元のタブレットに指を滑らせる。警察庁の指揮回線が確立され、次の瞬間には公安局の百目鬼理事官が接続先に表示された。「百目鬼。現地はどうだ」「……浸水進行中。現場機動隊は駅東口周辺の治安維持を継続中。音楽堂地下に駅からの避難民数百人が取り残されています。」「救出に入れ。自衛隊は軍事対応で手一杯だ。ここは警察と消防が連携してやる局面だ。」「……了解。すぐに公安特課主導で現場救出作戦に入ります。」通信が切れた。---県警本部。百目鬼が、無言で片倉の肩に手を置いた。県警警備部公安課出身、そして現・特高班長。金沢入りして以来、百目鬼の右腕として作戦全体を実質的に差配してきた。「……マルトクから現場に伝達だ。音楽堂地下に避難民が取り残されている。対象、数百。今すぐ救出に入る。」百目鬼の言葉に、片倉は一度だけうなずき、無言のまま無線に手を伸ばす。その表情に迷いはなかった。「機動隊、第一班は音楽堂正面から地下へ。第二班は外周の水位と安全ルートを確保。救助は消防隊と連携、搬送は一部自衛隊に預ける。」周囲の隊員たちが迷うことなく動き始めた。誰一人、片倉の判断に疑義を挟む者はいなかった。一拍の間。「現場指揮は……俺が執る」言い終えると同時に、片倉はヘッドセットを外し、指揮卓の椅子から立ち上がった。百目鬼が、彼の背に声をかける。「頼んだぞ、片倉。お前にしか任せられん」片倉は振り返らないまま、低く答えた。背筋を伸ばしたその背中には、長年、公安現場で修羅場をくぐった者の気迫がにじんでいた。【金沢駅東口・市道を走行中の機動隊車両内】暴風雨がフロントガラスを横殴りに叩きつけていた。車内の空調は切られて久しく、窓の内側には曇りが生じている。運転席を含め、誰一人として口を開こうとしない。バックミラーには、もてなしドームの崩れた骨格と、沈みかけた駅東口広場が映っていた。その沈黙を破ったのは、突如鳴り響いた無線だった。「機動隊、第一班は音楽堂正面から地下へ。第二班は外周の水位と安全ルートを確保。救助は消防隊と連携、搬送は一部自衛隊に預ける。」言葉が終わるのを待たずに、車内の空気が固まった。「……は……?」助手席の機動隊班長が、一拍遅れて振り返った。眉をひそめ、疑念を隠さなかった。「撤収命令が出てたはずだ……この車両だって、民間人搬送が目的だったろ」その言葉を遮るように、後部座席から久美子が身を乗り出す。「お願いです、引き返してください!」班長が驚いたように彼女を見た。「音楽堂に残ってる人たちは、私たちと同じです。あの人たちが置いていかれる理由なんて、どこにもない……」一瞬の沈黙。隣で森が、静かに補った。「そこには高齢の人も、ベビーカーの母親もいるはずよ。この洪水の中あそこに取り残されたら……手遅れになるわ。」言葉は熱を帯びていたが、感情に溺れすぎてはいなかった。冷静さの中に、誇りと責任が混じっていた。助手席の班長は、短く息を吐いた。そしてフロントガラス越しに、崩れかけた駅ビルの外壁を見つめた。無線機を取り、声を張る。「反転だ! 目的地を音楽堂地下避難所に変更。展開準備開始!」タイヤが濡れたアスファルトを巻き上げ、水飛沫がルーフを叩く。ブレーキとハンドルが一斉に旋回し、車列は反転した。雨のベールの向こう――暗く沈みかけた駅前広場へ、再び戻っていく。【石川県立音楽堂 地下避難エリア】停電によって暗闇に包まれた空間。スマートフォンの微かな光だけが頼りだった。「もう、電波入らん……っ。」若い女性が不安げにスマホを掲げ、誰かが叫ぶ。「どこかに……出口はないんですか!?」「誰か来て……!」子どもの泣き声が響き、駅員が必死に声を張り上げていた。「落ち着いてください! ここは安全です……外と連絡は……」その声も、すでに嗄れていた。足元の水位は膝下に迫り、壁からは濁流がじわじわと染み出していた。浮き始めたゴミ、異臭、崩れた天井の破片。混乱の淵にある400人。【久美子・森 現場到着】機動隊車両が音楽堂前で停車。泥水がタイヤの半ばまで達していた。「着いたぞ、ここで降りる!」班長が声を上げると、後部ドアが開き、久美子と森が濁流の中に飛び出した。「こっちです!中の構造、ある程度把握してます!」久美子は自分のスマホに保存していた音楽堂の構造図を取り出し、森とともに非常階段へ向かう。階段は既に浸水が始まっており、森が一歩踏み出した瞬間――「うわっ!」コンクリの破片に足を取られ、体を大きく傾ける。久美子が咄嗟に腕を掴み、なんとか踏みとどまらせた。そのとき、後方からヘルメット姿の消防隊員が駆け寄る。「警察ですか?こちら消防第六救助隊!地下の水位、あと30センチで限界です!」久美子が振り返り、深くうなずく。「わかりました……すぐ中の状況を確認して、搬送体制を整えます!」「機動隊は二手に分かれろ!一班は地下の避難民誘導、もう一班は外周ルートの確保と自衛隊との連携だ!」即座に班長は指示を出した。久美子は民間人として、その状況判断力と情報提供の正確さで、間接的に現場対応を支えていた。---【地上:音楽堂南側広場】豪雨が音楽堂南側広場を容赦なく叩きつけていた。広場の一角には、警察・消防・自衛隊が混在しながらも秩序だった動きを見せている。濁った水が足首のあたりまで迫る中、自衛隊のゴムボートが次々と準備され、建物の柱にロープが括りつけられていた。「こちら第14普通科連隊・副連隊長の川島一佐。」川島一佐は、防水ケースに入った作戦地図を確認しながら、通信装置に指をかけた。戦闘の最前線はもはや制圧済み。プリマコフ狙撃以降、人民軍の動きは明らかに鈍っていた。(……もはや掃討戦。ここから先は、どれだけ早く“日常”に戻せるかだ)彼は無線を開いた。「百目鬼理事官からの要請を受け、音楽堂前へ援護部隊を派遣中。災対法第83条に基づき、臨時の災害派遣任務とする。第3小隊の一部が現場に到達済み、搬送支援の準備に入る。」無駄な言葉はなかった。上空には自衛隊のUH-60JAヘリコプターがホバリングし、そのサーチライトが暴風雨の中で建物の周辺を照らし出していた。地上では、県警公安特課と消防隊員、そして自衛隊の陸曹たちが連携を取り合いながら、音楽堂内部から避難民を搬出するルートを構築していた。「高齢者が多く、ストレッチャー搬送が必要です!」 小隊指揮官が川島に叫ぶ。「了解。警察・消防との連携を最優先にしろ。民間人の救助が最優先だ」 川島はそう返しながら、視線を音楽堂の入り口に向けた。そこでは機動隊と公安特課の隊員たちが次々と民間人を誘導しており、顔には疲労と緊張の色が濃く浮かんでいた。水位はなおも上昇していた。雨は止まない。もはや現場の時間は、分単位ではなく秒単位で削られつつあった。---...more16minPlay
August 08, 2025206.1 第195話「生者の義務」【前編】このブラウザでは再生できません。豪雨は容赦なく降り続き、金沢駅東口広場はまるで沈みゆく盆地のように水が溜まり始めていた。もてなしドームの残骸が打ち捨てられ、プリマコフ中佐率いる人民軍部隊は、破壊されたオフィスビルの軒下に展開していた。黒木為朝特殊作戦群群長は、防弾ベストの上から無線を握った。濡れた戦闘服から水が滴る。冷たい雨は、もはや兵士たちの動きすら鈍らせていた。「――群長、プリマコフ中佐の位置確認」「距離420。座標は東口広場、赤い瓦礫の残骸横」「狙撃可能距離、風速計算済み」「……射撃許可を」黒木は双眼鏡の奥で、カーキ色のレインパーカー姿の男を確認した。頭に軍帽を被り、周囲の隊員たちに無言の指示を送り続けるその男。その背筋の張り、無駄のない動き……プリマコフ本人だ。「……プリマコフ中佐、間違いない」黒木は呼吸を整え、冷徹な声で命じた。「“狛犬1”、撃て」**約400m離れた位置。駅東口の旧市街地側にある9階建てオフィスビルの屋上。冷たい雨が照準スコープのレンズに当たるのを、スナイパーは親指の甲で静かに拭った。【特殊作戦群・狙撃手:コールサイン“狛犬1”】静かに息を吐く。照準の十字線がプリマコフの胸部にぴたりと重なる。プリマコフが次の指示を出そうと歩みを進めた、まさにその瞬間――「……Fire」ズドン。周囲の雷鳴と区別もつかぬ轟音が夜空を切り裂いた。.338ラプアマグナムの弾頭が高初速で発射され、一直線に標的へ。プリマコフの胸部に着弾。中佐は一歩、二歩とふらつき……信じられぬという表情を浮かべたまま膝をつき、崩れ落ちた。カーキ色の外套が、雨に濡れた御影石の上に無惨に広がる。「……目標沈黙」狛犬1の無感情な報告が無線に乗った。**同じころ。駅東側、離れた旧ビジネスホテルの屋上。こちらも黒木と同じく事前展開していた、卯辰一郎がその一部始終を高倍率スコープで見届けていた。元・自衛隊特務部隊の戦闘教官。その経験豊富な視線が、プリマコフの最期を確かに捉えた。「……完璧だ」卯辰は低く唸った。着弾のタイミング、風速と降雨の影響、標的の移動予測すら織り込んだその射撃。(今の自衛隊狙撃手はここまで到達しているのか……黒木、お前の部隊、育てたな)彼は一瞬だけわずかに口元を緩めた。だがすぐに戦場の現実に意識を戻す。(あとはプリマコフ部隊がどう動くか……この雨、この地形、そしてこの混乱。戦はまだ終わっていない)卯辰はスコープ越しに広場全体を注視し続けた。重たい雨音だけが、鼓膜を塞ぐように降り注いでいた。金沢駅東口 広場プリマコフ中佐が倒れた瞬間、その場の空気が凍り付いた。もてなしドームの残骸の向こう、散開していたツヴァイスタン兵たちが一斉に動きを止める。中佐の指揮下という絶対命令系統を失った部隊は、瞬時に連携の糸を失った。「――目標沈黙。」特殊作戦群の狙撃班が無線で報告する。「よくやった」黒木群長は静かに応じた。だが、次の瞬間、その表情がわずかに曇る。「……?」遠くから轟く、低い地鳴りのような異音。地上の誰もがそれを聞き取り、微かに顔を上げた。ゴォォォォォ――駅ビルの北側。曲がりくねった浅野川の上流方向から、膨大な水流の奔流音が押し寄せてきた。直後、警報サイレンと同時に市防災無線が全域に響く。《【緊急安全確保】浅野川流域で大規模堤防決壊!周辺地域は即時避難!大至急、高台もしくは建物高層階へ退避せよ!》黒木の耳にもそのアナウンスが届いた。「……浅野川、決壊……?」その呟きは、冷静な群長の声とは思えないほど低く重かった。次の瞬間、駅東口側のビルの谷間から、泥水と瓦礫が混ざり合った濁流が轟音を立てて迫ってくるのが目に映った。プリマコフ中佐の部隊も気づいた。装備を抱え、蜘蛛の子を散らすように撤退行動に移ろうとしたが、すでに遅い。第一波の濁流が音もなく広場を呑み込む。倒壊した車両や標識を押し流しながら、冷たい激流が容赦なく進軍していく。ドォォン……ッ!駅ビル1階のガラスが外圧に耐えきれず割れる音が聞こえた。「全隊!緊急撤収!高所退避!」黒木は咄嗟に無線で指示を飛ばした。---一方、隣接する金沢駅東口・商業ビル内部――天井からの雨漏りがポツ、ポツと、既に水浸しの床に音を落としていた。濁流の接近に気づいた吉川と黒田は、崩れた壁の隙間から外を確認していた。「……なんだ……?」吉川が低く呟く。黒田が目を細める。「水……?」次の瞬間、道路の奥から迫り来る濁流に気づき、黒田が息を呑む。「……あれは……浅野川だ……氾濫してる!」吉川は即座に判断を下し、無言で身を引いた。振り返ると、椎名――いや、仁川征爾が、座り込んだままの姿勢で周囲をじっと見据えていた。ただの虚脱ではなかった。彼の目は確かに濁っていたが、同時に何かを考えている眼でもあった。(……プリマコフが……俺を消しに来ている。)椎名はそう悟っていた。アルミヤプラボスディアの残党を追ってきたのではない。証拠隠滅。いや、もっと明確な“遮断”のための来訪だ。この現場に残された「証人」。それが自分である。(プリマコフにとって、俺の存在は“リスク”だ。あいつはそれを排除するために動いている。)頭は冷静に回っていた。足元に押し寄せる濁流、斥候部隊の侵入、階下での制圧戦。だが、自分はまだ殺されていない。今のところ。少なくとも、目の前にいるこの日本の男たち――吉川と黒田には、自分を殺す意志はないようだった。(使える。)そう判断した。(今は彼らに“守られながら”、移動すべきだ。プリマコフが仕掛けた掃討部隊の網を抜けるには、盾がいる。)その瞬間、外で重く乾いた銃声が鳴り響いた。──ズドン銃声は単発だった。間違いない。ライフル、それも大口径。「……ライフルだ。」吉川が言った。その声に、辺りが一瞬だけ静寂に包まれた。激しい雨の音だけが響く。射撃も怒号も消えていた。椎名は感じ取った。(……誰かが死んだ。……いや、“指揮官格”が、死んだ。)誰なのかはわからない。だが、戦況の空気が変わったことは明らかだった。明瞭な命令系統が、一瞬で失われたような感触。沈黙の中にある、奇妙な空白。次の瞬間――「……音が……おかしい」黒田が呟いた。地下から響くような、重く、低く、湿った音。──ゴゴゴゴ……それは徐々に大きくなり、やがて耳に届く轟音となって押し寄せてきた。「……来るぞ!」吉川が叫ぶより早く、椎名は床を蹴った。だがその身体に、突如、硬直が走った。濁流の音。泥と瓦礫が混ざった奔流の音。その響きが、彼の意識を過去へと引きずり戻す。──あれは……あの音だ。目の前がぐらりと揺れた。26年前。土石流が彼の家族と村を飲み込んだ、あの夜。黒い泥が母の背を押し流し、声が消え、家が崩れ、手の中の弟の掌が冷たくなった。すべてを一瞬で奪った、災厄の記憶。(……そうだ。あのとき、死んだんだ。俺は。)意識が現実と乖離しはじめる。眼前の濁流が、過去の土石流と重なる。(今、流されれば……あの時に戻れる。全部終わる。ツヴァイスタンも、日本も、仁川征爾も……)楽になれる。この戦いも、この使命も、この仮面も。泥に飲まれてしまえば、すべてが無になる。(……そう思ってたはずだ。)だが、脳裏にいくつかの顔が浮かぶ。──アナスタシア。──下間兄弟。──朽木。──父と母。彼らは、彼を必要とした。あるいは、かつて、そうであった。(俺を待ってた人間が、いた。)椎名の中で、現実と幻影が交錯する。(……なのに、今ここで、また逃げるのか?)肩の震えが止まらない。そのとき、黒田が叫んだ。「椎名!立て!逃げるぞ!」返答はない。だが椎名の手が、かすかに黒田の腕を掴んだ。本能ではなく、明確な意志として。迷いの末に選ばれた、わずかな「再生」への接続。「……行くぞ、黒田!」吉川の号令とともに、椎名は身を起こす。重い体。鉛のような精神。それでも、足を前に出した。彼はまだ完全に戻っていなかった。だが、壊れた中でなお“動くこと”を選びはじめていた。3人は濁流の中を抜け、破壊されたビルの外縁へ向かって走った。その背後で、もはや崩壊寸前の建物が、悲鳴のような金属音を響かせていた。...more16minPlay
FAQs about オーディオドラマ「五の線3」:How many episodes does オーディオドラマ「五の線3」 have?The podcast currently has 262 episodes available.