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雨は弱まる気配を見せず、泥水はゆっくりと、だが確実に音楽堂の階段を飲み込もうとしていた。
仁川征爾と片倉。
その間に流れていたのは、ただの水ではない。
泥濘に沈んだ死者たちの重みと、ぶつけられることのなかった問い、語られなかった復讐。
睨み合う両者の呼吸だけが、時の進行を遅らせていた。
拳銃にかけた手が、片倉の腰で静かに止まっている。
仁川の指も、拳銃のグリップから外れない。
――張り詰めた均衡。
だが。
その均衡が、ある足音によって、わずかに崩された。
「すみません、通ります――」
声は、柔らかく、はっきりしていた。
靴が泥を蹴り、雨を切って階段を上がってきた一人の女性。
山県久美子。
左腕に子どもを抱え、右手には毛布を握りしめていた。
ぬかるんだ足元に気を配りながらも、彼女の歩みは止まらない。
それは助けを求める者のもとへ、何度も歩んできた者の、それだった。
そして、その歩みは――
仁川と片倉、二人の間を、まるで“何も起きていない”かのように、すり抜けていった。
仁川が動きを止める。
子どもを抱きかかえ、通り過ぎる久美子の肩越しに、彼女の目が一瞬だけこちらを見た。
感情のない瞳だった。
怒りでもなければ、拒絶でもない。
“ただ見る”だけの目。
まるで、そこに「誰もいなかった」かのように。
だが、その視線は――
仁川の内部に、静かな異変を生んだ。
(……なぜ、あの女は……俺を“見なかった”)
彼は、罵倒されることも、叫ばれることも想定していた。
だが、無視された。
否――“存在しない者”として、通り過ぎられた。
仁川の拳が、わずかに震えた。
片倉もまた、久美子の姿に気づいた。
(……山県…久美子…)
濡れた髪、泥の跳ねた衣服。
だが彼女は、誰よりも“まっとう”にこの場にいた。
泥にまみれ、命を抱え、ただ黙って現場を動かしている。
一方で、目の前にいる男は、誰かを救ったことがあるか――
問いが浮かぶ。
そして、いつの間にか片倉の手は、拳銃から外れていた。
その瞬間、イヤホンから神谷の声。
《……射線、保持中。どうしますか》
片倉は応えなかった。
仁川も、もはや構えず、ただその場に立ち尽くしていた。
泥と雨の中。
男たちの対峙は、声なき者によって――解かれたのだ。
山県久美子の足音が、泥水を跳ねながら遠ざかっていく。
抱きかかえた子どもの体温が、仁川の皮膚の記憶を揺さぶった。
何も言わず、何も問わず、ただ通り過ぎたその背に、誰もが口を噤んだ。
片倉の拳銃は、腰のホルスターに戻っていた。
(……なぜ、俺は……撃たない?)
明確な答えはなかった。
怒りも、憎しみも、確かにそこにあったはずだ。
だが今、それをぶつけるべき理由が、手の中から滑り落ちていた。
(……この男は、いったい何をした? 相馬を殺した? トシさんを謀(たばか)った? 確証はない。だが……)
そこにある仁川の目は、あまりにも空虚だった。
責任を取る意思も、後悔もない。
それどころか、正当化すらしていない。
ただ、淡々と――まるで「世界そのものに否を突きつける」ような、純粋な破壊の眼差し。
(……こんな相手に、俺は何を求めてるんだ?)
片倉は、自問していた。
制裁か。報復か。あるいは赦しか。
だが、どれもピンとこない。
一方、仁川もまた――自分の中に芽生えた“小さな違和感”に気づいていた。
(……あの女…。俺はあいつに“何者”として映ったんだ?)
視線すら寄越さなかった山県久美子。
彼女の中に、自分は「存在していなかった」。
それは侮辱ではなかった。
“何者でもないもの”への、無関心。
(……俺は、ここまでしても……“ただの通行人”か……)
血も、死も、裏切りも、すべてを背負ってここに来た。
だが、通り過ぎたその瞳に、自分の姿は――なかった。
(……俺の価値は、何だった?)
一瞬、仁川の顔がわずかに歪む。
それは怒りではなく、空洞を覗いた者の表情だった。
その時。
無線が鳴る。
《……こちら神谷。片倉さん、緊急。南排水区の水門が決壊。浅野川第三系統の流入が始まってる。》
片倉が眉をひそめる。
《あと5分で東口の広場に水圧が到達。最大で胸元まで一気に来る。搬送と人員を退避させないと、ここが“飲まれる”。》
「……!」
片倉は即座に顔を上げた。
音楽堂の階段の下、濁流がすでに高さを増している。
「岡田、全隊に伝えろ。撤退だ。全員を高い場所に即刻移動だ。」
《了解!》
救助ラインの隊員たちが、慌ただしく声を交わし始める。
ゴムボートが水を跳ね上げ、ストレッチャーが泥にまみれて浮かぶ。
雨は止まない。
だが、この場に留まれば、間違いなく全員が沈む。
仁川は片倉を見た。
片倉も仁川を見た。
言葉はなかった。
互いに“もう何かを決する状況ではない”ことを、理解していた。
これはもはや、個の対峙ではない。
自然そのものが、全ての帳尻を合わせに来たのだ。
――終幕は、個の意志でなく、“水”が引く。
片倉は短く息を吸った。
そして、雨の帳の中で、静かに背を向けた。
仁川もまた何も言わず、それを見送る。
背を向けあいながら、二人はそれぞれの場所へと、歩き出す。
次に会う時があるとすれば――
それは“誰か”が、“選ぶ”のではなく、歴史がそうさせる瞬間かもしれなかった。
音楽堂建物の外――西側搬入口から怒号が上がった。
「水が……水が入ってくるぞッ!!」
「搬出中止!残り全員、上階へ避難しろ!」
館内の床を這っていた泥水が、一気に膝まで跳ね上がった。まるで下から突き上げるような水圧――水門が破られた証拠だった。
その泥濘の中、その場に戻ってきた山県久美子は咄嗟に傍らのストレッチャーから子供を抱き上げた。
「この子は……私が連れてく!」
もう片方の腕で、荷物のように濡れたブランケットを押さえ、靴が泥に取られそうになる足を踏み込んで、西階段を目指す。
「お母さん、こっちよ!」
森が叫んだ。久美子の数歩後ろ、彼は母親と思しき女性の手を引いていた。
濡れた手は滑りそうになるが、それでも握力は離さなかった。
後方では、壁を押し破るような水が廊下を飲み込んでいく。瞬く間に館内の照明がばちばちと火花を散らし、音楽堂は崩れかけた舞台装置のように不安定な音を立て始めた。
「急いで――もう持たない!」
階段の踊り場を駆け上がる久美子の腕には、まだ幼い子どもがしっかりと抱かれていた。
そのすぐ後ろ、森が母親の手を強く引きながら、怒鳴った。
「足、止めるな!」
彼らの足元まで濁流が迫った瞬間――
水面が爆ぜるように階段下まで一気に水が駆け上がる。
だが、彼らの姿はすでに一段上に飛び移っていた。
久美子が振り返ると、森は母親を庇うようにその背を押しながら、上へとさらに一段跳ね上がっていた。
間一髪だった。
ーー
「……流れ来るぞ!水圧、今までとは違う!」
誰かの叫びが轟いた次の瞬間、南東の方向から――水が“駆けてきた”。
堤防の決壊によって生じた“第二波”の水流が、駅前の広場へと怒涛のように雪崩れ込んだ。
水門が破られたのだ。
それは濁っていた。重たく、速く、圧倒的だった。
「掴まれ――ッ!」
自衛隊員の怒号。
ボートが煽られ、担架が流れ、警察の隊員が壁に叩きつけられる。
音楽堂前の舗装は、もはや“道”ではなかった。
水面があらゆるものの重さを無化し、ただ沈めていく。
瓦礫の山も、鉄骨の柱も、計画された指揮系統すら、あっという間に無力化された。
「負傷者を優先しろ!自衛隊は北ルート確保や!」
「階段はもう使えん!地上は引け、裏へ回れッ!」
片倉の怒号が無線越しに飛び交う。
岡田が手旗を振り、消防と機動隊が無言でロープを回す。
だが――あまりにも水が速い。
あと数分で、すべてが沈む。
“人”という存在が、抗うにはあまりにも脆すぎる流れだ。
そのときだった。
その流れに逆らい、ただ一人、立ち尽くしている者がいた。
仁川征爾――椎名賢明。
先ほどまでの“破壊者の貌(かお)”は、そこにはなかった。
彼は振り返らなかった。
片倉も、岡田も、誰も彼を呼ばなかった。
仁川自身も、誰にも言葉を向けなかった。
彼はただ、“水”のほうへ、進んでいた。
地上に続く階段の中腹、崩れた外壁の際。
水が足元を巻き、腰を越え、肩まで迫る。
だが仁川は、歩くことをやめなかった。
迷彩服の裾が浮き、拳銃が濁流の中に沈む。
そのとき、仁川の目が、ふと天井――
どこにもない空の彼方を見た。
何かを悔やむようでも、誇るようでもなかった。
ただ――
「……ようやく、“帰れる”」
誰にも届かない独白だった。
次の瞬間、音もなくバランスを崩し、
その身体は濁流に呑まれた。
「……今の、見たか……」
岡田が呟いた。
片倉は返さなかった。
どこか遠くで警報が鳴っていた。
雨の音はもう聞こえなかった。
残されたのは、静けさではなかった。
怒涛のような“空白”だった。
あの男は、何をしにここに来たのか。
破壊者か。
罪人か。
あるいは、最初から“いなかった”のか。
ただ、誰かの記憶の中にだけ、泥に沈む彼の背中が刻まれていた。
そしてその夜――
一匹の濡れた獣が、名もなく水底へ還った。