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「片倉邸から出てきた周と京子は、相馬の家に入りました。」
「そうか。」
「片倉邸の警備はどうしますか。」
「カラの家の警備は必要ないだろう。」
「では撤収させます。」
警察庁の一室にいた松永は耳に装着していたイヤホンを一旦外し、小指で中をカリカリと掻いた。
「理事官。」
一緒に部屋に居た部下が彼の名前を呼んだ。
「どうした。」
「現場が動き始めたようです。」
「おう。」
松永は再度イヤホンを装着した。
「熨子山事件に関する記事がアップされはじめ、それがSNSによって石川県を中心に拡散が始まっています。」
「熨子山事件だと?」
「ええ。ほんまごとというブログです。」
「ほんまごと…。北陸新聞テレビの黒田か…。片倉の奴賭けに出たな。」
「これはどういうことなんですか。」
「詮索無用。俺は現場から報告を受けている。」
「ですがこれ…あの事件の核心をついたネタばっかりです。藤堂、いや鍋島の生存と潜伏情報まで開示しています。」
「いいんだ。市民への注意喚起だ。」
「しかし拡散がひとたび始まると、いずれそれは全国的に広がりかねません。」
「心配はない。そのあたりは厳選されたインルフエンサーに一次拡散を仕掛けることになっている。石川県中心に影響力をもつ連中にな。」
「そうですか…。」
「それにな。世の中の大多数は熨子山事件のことなんて興味ない。そんな事件あったっけ?ってもんだ。いくら拡散希望と銘打って極めて真実に近い情報が書かれたリンクを貼ったところで、そこを踏むなんて行動はしない。しかし地元の人間は違う。地方都市であれほどの事件なんてそうそう発生しない。あの時リアルタイムで熨子山事件の報道に接していた石川の連中はかなりの確率でそれを見るだろう。」
「二次・三次と情報が伝播したところで、その拡散の範囲は限定されるってことですか。」
「ああ。だがそんな情報でも何となくリンク先を踏んで、そこにあるほんまごとを読む連中は全国に一定の割合で現れる。そこで事の重大さを知ったそいつらがまた拡散。結果的にはお前が言ったように全国的にほんまごとは拡散するかもな。」
「なるほど。その一定の時間を経て拡散というところに理事官の意図するところがあるんですね。」
「ふっ…俺じゃない。現場の判断だ。」
部下は含み笑いをした。
「こちら相馬邸。」
無線が聞こえたため、松永も部屋にいる者も一瞬にして険しい顔になった。
「なんだ。」
「車が1台、家の前に横付けされました。」
「なに?」
「あ…。」
「どうした。」
「し…しもつま…。」
「下間?」
「えぇ…。」
「下間ってどの?」
「麗です。下間麗が助手席に乗っています。」
「何だと…。」
「直ぐ送ります。」
ものの5秒程度で部下の前にあるパソコンに現場の状況が動画で送られてきた。それを見た松永は唾を飲み込んだ。
「本当だ…。」
映像を補足するように現場から無線が入る。
「運転席には周の友人、長谷部。あ…家から周と京子が出てきました。」
映像の2人はそのまま長谷部の車の後部座席に乗り込んだ。
「理事官。」
「付けろ。」
「了解。」
ハザードランプを消した車は2人を載せその場から走り去っていった。
「しまった…。周の友人か…。ノーマークだ…。」
「どうします。理事官。」
「片倉には言うな。いまここで奴に動揺されては困る。」
「は…はい。」
「拉致とはまだ決まっていない。現場が付けている。奴らを信じよう。」
腕を組んだ松永は部屋の中を歩き出した。
無言で車に乗り込んだ相馬と京子は車内においても口を噤んだままであった。
2人の視線は下間麗の後ろ姿にある。今日の彼女は髪をおろし、地味目の服装の普段の彼女だ。
「相馬、京子ちゃん。」
沈黙を破ったのは長谷部だった。
「いま俺の隣りに座っとるのは岩崎さんじゃない。」
相馬と京子はお互いを見合って頷いた。そして相馬が白々しく長谷部に答えた。
「は?」
黙ってしまった長谷部はなかなか続きを話さない。
「え?…お前…何なん…。何意味わからんこと言っとれんて。まさかここ最近の暑さで頭やられた、いや、岩崎さんと良い感じになって頭おかしくなったんじゃねぇが。」
「ちょっと…周…言い過ぎよ。」
京子が窘めた。
「わりぃ相馬。頭おかしくなったんやったらほんでいいんや。」
「え?」
「でも違うんやわ。俺の隣りに座っとるのは岩崎さんじゃない。」
「おいおい…じゃあ何やって言うんやって。」
「シモツマレイ。」
「はぁ?」
やはり長谷部は知ってしまったようだ。しかしどういった経緯で彼はその事実を知ったというのか。とりあえず相馬はこの場は長谷部に合わせて様子を探ることにした。
「あの…そんな意味不明なことで俺ら呼び出したんけ。長谷部…お前だけなら良いけど、当の本人がそこにおれんぞ。付き合ったなんりなんに失礼やと思わんがか?」
「そりゃ失礼やわいや。俺が言うことがただの冗談なら。」
岩崎は黙ったままである。
「え…。岩崎さん…?」
彼女は返事をしない。
「俺の隣に座っとるのは岩崎香織じゃない。下間麗って子や。」
「し・も・つ・ま…?」
「ああ。石大の下間芳夫教授の娘さん。」
「ちょいちょいちょい…。」
「ついでに言うと下間さんは日本人じゃない。」
「え?」
一色の手紙には書かれていなかった情報が長谷部の口から出てきたことに驚いた相馬は、思わず京子を見た。京子のほうも驚きを隠せない様子である。
「ツヴァイスタン。」
「ツ…ツヴァイスタン?」
相馬に衝撃が走った。
「岩崎香織って架空の人間に成りすまして、ツヴァイスタンからこの日本に密入国したんや。」
「え…。ってか…ツヴァイスタン?」
「ああ。日本と国交のない共産党一党独裁の世界でも異色な国。本当のことやから下間さんは黙っとる…。」
麗は反論も何もせずにただ流れ行く景色を窓から見つめている。
「俺だって信じられん…けど、本人から聞いたんや。本人の言葉を信じられんがやったら、俺らの関係なんて成り立たん。」
「…。」
「相馬。京子ちゃん。別に俺を信じろなんて言わん。けど下間さんだけは信じてやってくれ。」
さっきまで2人は「ほんまごと」の記事を読み、熨子山事件にツヴァイスタンの工作員が深く関与していたという情報に接している。目の前にいるこの女性もまさかそのツヴァイスタンの工作員のひとりだとでも言うのか。2人は困惑した。
「ほんでお前…受け止めきれるかわからんって…。」
「あぁ。」
好きになってしまった女性が身分を偽るどころか、ツヴァイスタンの工作員の疑いがある。長谷部が気持ちの整理ができないのも至極理解できる。
「なんで下間さんが誰かになりすましてここにおるか。」
彼女がツヴァイスタンの工作員だとするとその動機はひとつしかない。なんらかの命令でここ日本に工作活動をするためにやって来た。一色の手紙には彼女は重たい十字架を背負っているとの言葉があったが、それはツヴァイスタンという背景を指したものだったのかもしれない。
「或る男によって下間家が支配されとるから。」
「或る男が支配?下間家を?」
「おう。」
「え…特定の誰かがその…し・しもつまさん家をいいように操っとるってか?」
「ほうや。」
ツヴァイスタンという国家的なものではなく、個人によって下間は支配されているというのか。
「人質が取られとるんや。」
「人質?」
「ほら相馬。あのツヴァイスタンって国の報道とか見たことあるやろ。」
「ああ。テレビとかで。」
「本人前にして言うのも何やけど、あの国は報道で見る限り未だに中世の世の中みたいなところや。執行部とかって言われとる党の上層部の判断に異を唱えれば即刻死刑。もちろん裁判も何もない。裁くための法律すらろくに整備されとらん。」
「そうらしいな。」
「逆を言えば、党に気に入られさえすればトントン拍子に出世。」
「おう。」
「下間さんはそんなあの国で党に気に入られようとした或る男によって利用された。」
「え…?」
「下間さんのお父さんはある日党の命令で日本へ渡ることになり、家から姿を消した。そこで或る男が下間家に接近。一家の大黒柱が不在の下間家に経済的人的援助をした。その後、病気がちの母親を最高水準の医療を提供する病院へ入院させ、医療介護の保証を買って出る。つまり父親不在時の面倒の一切をみることを引き受けた。しかし他人の面倒を無条件に見るほど、立派な人間はそうはいない。この男もそうやった。」
「どういうことや。」
「あの国の病院ってやつはすべて党の統制下に置かれとる。つまりそれは言い方を変えれば党に常時人質に取られとる状態。もしも党の命令に背くようなことがあれば、いつでも入院中の母親の医療行為を停止することができる。」
「え?」
「或る男が病院の斡旋をした。つまり或る男は下間さんの母親の生殺与奪権を事実上その時点で握ったことになる。」
「…。」
「もしも下間家の人間が或る男に楯突いたとする。或る男が俺に楯突くのは党に楯突くのと同じやって言って、有る事無い事党にチクったらどうなる?」
「それは…。」
「…そういうことや。」
この時携帯が震えたため、京子はそれを手にとった。
画面には至急報2の文字が表示されている。ほんまごとの更新が成されたようだ。彼女は長谷部と相馬のやり取りに耳を傾けながら、携帯に目を落とした。
「それ以降、下間家は或る男の支配下に置かれ、そいつの手柄を演出するために生きた。その一環として下間さんがここ日本に居るっていう現状がある。」
ツヴァイスタンと言う国は自国で養成したスパイを西側諸国に放ち、敵対国への工作活動を活発に行なっているということは報道で誰もが知るところである。
「ツヴァイスタンの工作員ってやつか…。」
この相馬の言葉を受けて長谷部はしばらく沈黙し、ゆっくりと頷いた。
「下間さんの働きは或る男の手柄。或る男は手柄を得てあそこの党の主要なポジションを得ることができるってサイクル。」
「んな…だらな…。」
長谷部はため息をついた。
「そこで本題や。」
「え…なに…?」
「その或る男って奴から、下間さんを助けてやりたい。」
「は?」
何を言ってるんだ。そもそも下間の母親はツヴァイスタンという未開の国にいる。日本と国交すらない国だ。その中で起こっている問題をどう解決せよというのだ。それに或る男が下間の母親を事実上人質にとっていると言え、背景にツヴァイスタンという国家がある。個人が国家に対抗するとでも言うのか。しかも国境を超えて。現実離れした長谷部の思いに相馬は半ばあきれた顔をした。
「幸いその或る男はいま、ここ日本に居る。」
「え?」
「しかも金沢に。」
「金沢?」
「おう。」
「え…どういうこと?」
長谷部は助手席の麗からスケッチブックを受け取り、それを相馬に手渡した。
そこにはあごひげを蓄えた中年男性が一筆書きのようなタッチで描かれている。
「今川惟幾。ドットメディカルCIO。」
「え?」
「こいつから下間さんを助けてやりたい。相馬、力を貸してくれ。」
「え…どうやって…。」
「わからん。わからんからお前に相談しとる。」
「ちょ…。」
相馬は戸惑った。
「ちょっと周…。」
戸惑いと混乱が彼の心理をかき乱す中、隣りに座る京子が相馬に声をかけた。
「なに…。」
「これ…。」
京子は相馬に携帯を渡そうとする。
「え…携帯?ちょ...京子ちゃん。それいま見んなんけ。」
「うん...。タイムリーなこと書かれとる。」
「タイムリー?」
「ほんまごと。」
「え…。」
携帯を渡された相馬はそれに目を落とした。