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「お待たせしました。」
剣道場の中にいた者たちは咄嗟にその声の方を見た。
「あぁ古田さん。」
佐竹が答えると、古田もまた道場の正面に一礼してその中に入ってきた。
「遅くなってすいません佐竹さん。ちょっと仕込みがありまして。」
「首尾よくいきましたか。」
「さぁ…どう転ぶかは運を天に任せるだけですわ。」
「あなたが古田さん…。」
相馬は思わず声を発した。古田は彼の前に立って口を開く。
「はい。私が古田です。相馬さんこの度はご連絡ありがとうございました。」
「あ…あの…。」
「さっきも電話で言ったように、あなた達4名の身の安全はこれで確保されとる。」
「え?」
「ここにあんたらを呼んだのは、ここが一番安全やからや。」
「え?どういうことですか?」
「まぁそのあたりは深く聞かんといてま。」
「あ…ええ…。」
「さて…。」
そう言うと古田は剣道場に胡座をかいて座った。
「相馬周さん。片倉京子さん。」
「はい。」
「はい。」
「お務めご苦労様でした。」
古田のこの言葉に2人は口をあんぐりと開けた。
「一色貴紀からの指示を忠実にこなしてくださって、私としてもお礼を申し上げます。」
そう言うと古田は二人に向かって深々と頭を下げた。
「ちょ…待って…。」
「急な要請とは言え、囲碁で培った戦略眼を活かし、2人の見事な連携プレーで長谷部さんと下間さんを結びつけ、僅かな期間で下間さんをあちら側から引っ張り出した。」
「え?」
「え?」
この発言に長谷部と麗は言葉を失った。
「言ったでしょう。一色からの手紙を受け取ったのはあなたらだけじゃないって。一色の目に狂いは無かったということでございます。本当にありがとうございました。」
古田は再び彼らに頭を下げた。
「あ、岩崎香織さんですね。」
「え?」
古田はカメラマンジャケットの胸元からティアドロップ型のサングラスを取り出してそれをかけた。
「お久しぶりです。」
「あ…。」
「いつぞやはあなたの作品を見させてもらいました。」
「ふ…藤木…。」
「はい。あの時の藤木です。」
「え?下間さん。古田さんと合ったことあらんけ?」
長谷部が麗に声をかけるが、彼女は何の言葉も発せない様子である。
「流石にワシらの情報も掴んどるんですね。片倉だけならいざ知らず、まさかワシの似顔絵までもあんたのスケッチブックにあるとは思わなんだ。」
「…。」
「ほやけどアレやね。実際に会ったことも見たこともない人間やと、つい分からんと接触してしまう脆さがある。」
サングラスを外して古田は深呼吸をした。
「下間麗。日本の警察を舐めんなや。」
「くっ…。」
麗は拳を強く握りしめて、肩を震わせる。
古田から発せられる今まで経験したことのないほどのとてつもない威圧感に、その場の相馬と京子、長谷部は押しつぶされそうになった。当然二人の間に入る余地もない。
「下間麗。」
「な…なによ…。」
「心配すんな。お前さんの母親はいま、都内の病院におる。」
「え…?」
相馬も京子も長谷部も古田の言葉に驚きを隠せない。
「お前さん、祖国にひとり残してきた母親のことを思って、親父と兄貴の悪巧みの片棒を担いできたんやろ。」
「え…え…。」
「もう止めや。お前はそんなことせんでいい。お前はおとなしく母親の側で看病してやれ。」
古田はカメラマンジャケットのポケットから1枚の写真を取り出した。
「今の下間志乃や。」
震える手で麗はそれを手にした。
そこにはツヴァイスタンのものとは比べ物にならないほど清潔感あふれる病室。ベッドに横たわる女性の姿が写し出されていた。
「お…お母さん…。」
写真に写し出された女性は紛れもなく母の志乃のようである。麗の瞳から涙が溢れ出した。
「ツヴァイスタンじゃあバセドウ病って診断やったらしいがな。」
「え…違うの…。」
「パーキンソン病。」
「パーキンソン病…。」
「ああ。入院するだけで病状が改善するような普通の病気じゃない。我が国では難病指定されとる厄介な病気や。残念ながら根本的な治療方法はまだ見つかっとらん。」
「え…。」
「ほやけど進行を遅らせることはできるらしい。ワシは医者じゃないから詳しいことは分からん。そこら辺は医者に直接聞いてくれ。」
「でも…。」
「聞け。お前さんは幸い今川らの悪巧みに直接的な関与はしとらん。」
「え?」
「お前さんはコミュちゅうサークル活動を運営しとった人間のひとりに過ぎん。日本では集会を開いたぐらいやとなんの罪にもならん。むしろ憲法で集会結社の自由が保障されとるぐらいや。」
「…。」
「ほやけどお前さんは岩崎香織という人物に成りすます、背乗り行為を行っとったんは明らかや。ほやから刑法第157条の公正証書原本不実記載等の罪の疑いがある。ちゅうてもこいつで立件されてもせいぜいで5年以下の懲役または50万円以下の罰金。」
麗に近づいて古田は彼女の肩を叩いた。
「やり直せる。自主しろ麗。」
「う…あ…あ…あぁぁぁ…。」
麗はひざまずいて堰を切ったように泣き出した。
「でも…でも…。」
「なんや…兄貴と親父が心配か?」
麗は頷く。
「…残念やけど、お前さんの兄貴と親父はどうにもならん。あの国で何をどうしようと勝手やけど、この国の法を破ったやつは相応の罰を受けんといかん。」
「でも…兄さんも…父さんも…そんな…お母さんが…日本に居るなんて知らなかった…。」
「…。」
「お母さんが…ここに居るなんて知ってたら…そんなこと…。」
「やらんかったかもしれんな。」
「古田さん!」
長谷部が声を上げた。
「なんなんすかそれ!?警察は麗の母ちゃんが日本に居るってわかっとって、それを今の今まで黙っとったんですか!?なんで麗と一回会った時にそれをこの子に教えてやらんかったんですか!?」
「長谷部君とか言ったね。」
古田の目つきが変わった。
「言ったやろ。日本の警察を舐めるなって。」
「え…。」
突如として刑事の目になった古田を前に長谷部は固まってしまった。
「仮にワシがそん時にこの子にその事実を教えたとして、状況はどうなる。」
「そ・それは…。」
「言えんがか。」
「あの…。」
「状況はどういうふうに転ぶかって聞いとるんや。」
「あの…。」
「麗から兄貴に悠里にまず報告が入る。そしてそれは親父の芳夫にいく。事実を知った芳夫は今川と接触をする。なんで志乃が日本に居るんだと。」
「い…いいじゃないですか…。」
「下間一族の今回の悪巧みはすべてツヴァイスタンに人質に取られとる母の身を案じてのもの。計画を実行する意味がなくなるやろ。」
「だからそれでいいでしょ。」
「あいつらがいままで何年もかけて仕込んできた企みが一瞬にしてぱぁ。そうなるとどうなる?」
「今川がひとり残念な感じになってすべてが丸く収まるじゃないですか。そもそも今川が全部悪いんでしょう。」
「だら。なんで麗の母親がこの日本に居ると思っとれんて。」
「え?」
「志乃を日本に連れてきたのは今川なんや。」
「えっ!?」
「いいか。コミュなんてサークル使って人間を洗脳して、反体制意識を植え付けて、何かしらの行動をさせる。そんなもん今川ひとりの策謀やと思うな。」
「え…って言うと…。」
「今川も駒のひとつや。」
古田のこの発言にその場はざわついた。
「今川が駒となれば、奴の上にも人間が居る。そうなるとどうなる。」
「そ…それは…。」
「今川が消される。志乃を日本に連れてきた今川が消されれば、その下で動いていた下間一族もその手の人間に口封じのために消される。」
ポケットを弄って煙草を取り出した古田であったが、ここが剣道場であったことを思い出してそれをしまった。そして罰が悪そうに頭をポリポリと掻いた。
「長谷部君。確かにお前さんの言うように大事な話を直ぐに当事者に打ち明けるのもいいんかもしれん。ほんで当事者同士の話し合いですべてを解決するべきことなんかもしれん。善悪二元論で考えればな。」
「…。」
「ほやけど世の中ほんなに単純なもんじゃない。ましてや複雑な人間関係と事件性が絡んどる。そうなるとどういうスタンスで望むのがよりましかっちゅう判断を優先したほうがいい。下手な正義感がむしろ多くの犠牲を生み出すことだってあるんやわ。」
今川が志乃を日本に運んだという情報を聞いた麗は放心状態だった。
「な…なんで…。なんで今川が…。」
「麗よ。今川はおまえら下間一家のことを案じとったんや。自分の身に何かのことがあれば、せめてお前らだけは何とか救ってやりたいってな。」
「…え…自分の身に何かがあれば…って…。」
「今川は数時間前、警察によって逮捕された。」
「た…逮捕…。」
「じきにお前さんの兄貴と親父も警察の手に落ちる。ほやからお前だけは母親の側におってやれ。」
その場に居合わせる者たちは、肩を震わせて再び泣き出す麗を見守るしか無かった。
自宅の書斎で本と向き合う朝倉の携帯電話が光った。彼は表示される発信者の情報を確認してそれに出た。
「どうした。こんな遅くに。」
「ドットメディカルにガサが入ったようです。」
「ほう。」
「CIOの今川はパクられたとの報告。」
「…そうか。」
「…でマルヒは。」
「完黙。」
「ふん。」
朝倉の机の上に置かれたノートには無数のアルファベットの文字が書かれている。そこのK.Iと書かれた文字には既に横線が引かれ抹消の跡がうかがえた。
「今回のガサですが、母屋(県警本部)の情報調査本部とやらの仕業のようです。」
「土岐か…。」
「はい。」
「所轄の動きは。」
「原発爆発事故のマルヒ藤堂の行方を未だ追っている状態。」
「母屋は。」
「情報調査本部はドットメディカルの七里とHAJABの江国のガラを抑えるべく、ほぼ空の状態。」
「七里と江国…。」
「それ以外に母屋には特に変わった動きはありません。」
朝倉はT.SとK.Eと書かれた文字に二重線を引いた。
老眼鏡を外した朝倉はため息をついた。
「本部長は。」
「昼行灯の名に恥じない素晴らしい采配ぶりです。」
「...貴様。言葉を慎め。」
「事実です。」
朝倉は不敵な笑みをこぼした。
「直江。」
「はい。」
「ところで古田の件は。」
T.Fと書かれた文字を上からペンで何度もなぞる。
「しばしお待ち下さい。」
「どこまで進んでいる。」
「カク秘でございますので。」
「いつできる。」
「一両日中には。」
「根拠は。」
「信頼のおけるエスが彼にたった今接触したようですので。」
「そうか。」
朝倉はT.Fの文字に三角形を描いた。
「私からの報告は以上です。」
「わかった。」
「部長。」
「うん?」
「明日の件よろしくお願いいたします。」
「あぁ…わかっているよ。俺が言い出したことだ。しっかりと予定に入っている。」
「では。」
「ああ頼んだぞ。」
電話を切った朝倉はペンを取って目の前のノートにS.Nのイニシャルを書き込んだ。
「ふふふ…。」
肩のコリをほぐす様に首を回し、一息ついた彼はノートを閉じてそれを引き出しにしまった。そしてその奥の方に手を伸ばして、そこから1台のスマートフォンを取り出した。
「お。」
画面には1通のメールが受信されている旨の通知が表示されていた。
朝倉はおもむろにそのメールを開いた。
「くくく…。」
イヤホンを手にした彼はそれを装着した。
「今度はどんな声で楽しませてくれるんだ?」
メールに添付されるMP3ファイルをタップし、しばらくすると彼は恍惚とした表情となった。
「あーいいぞ…。もっと…もっとだ…。もっと俺を愉しませろ…。」
彼の携帯からは若林と片倉の妻と思われる女性の逢瀬の音声が流れていたのであった。