われらの文学 レオンラジオ 楠元純一郎

12 你也买不到口罩了? 青空文库 夏目漱石 こころ 上 21+22


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オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」

エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」

作詞作曲 楠元純一郎

編曲 山之内馨


二十一


 冬が来た時、私(わたくし)は偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。

 父はかねてから腎臓(じんぞう)を病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病(やまい)は慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生のお蔭(かげ)一つで、今日(こんにち)までどうかこうか凌(しの)いで来たように客が来ると吹聴(ふいちょう)していた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機(はずみ)に突然眩暈(めまい)がして引ッ繰り返った。家内(かない)のものは軽症の脳溢血(のういっけつ)と思い違えて、すぐその手当をした。後(あと)で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。

 冬休みが来るにはまだ少し間(ま)があった。私は学期の終りまで待っていても差支(さしつか)えあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗(な)めた私は、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる手数(てかず)と時間を省くため、私は暇乞(いとまご)いかたがた先生の所へ行って、要(い)るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。

 先生は少し風邪(かぜ)の気味で、座敷へ出るのが臆劫(おっくう)だといって、私をその書斎に通した。書斎の硝子戸(ガラスど)から冬に入(い)って稀(まれ)に見るような懐かしい和(やわ)らかな日光が机掛(つくえか)けの上に射(さ)していた。先生はこの日あたりの好(い)い室(へや)の中へ大きな火鉢を置いて、五徳(ごとく)の上に懸けた金盥(かなだらい)から立ち上(あが)る湯気(ゆげ)で、呼吸(いき)の苦しくなるのを防いでいた。

「大病は好(い)いが、ちょっとした風邪(かぜ)などはかえって厭(いや)なものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。

 先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。

「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平(まっぴら)です。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよく

解(わか)ります」

「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹(かか)りたいと思ってる」

 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。

「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」

 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥(ちゃだんす)か何かの抽出(ひきだし)から出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧(ていねい)に重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。

「何遍(なんべん)も卒倒したんですか」と先生が聞いた。

「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」

「ええ」

 先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。

「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。

「そうさね。私が代られれば代ってあげても好(い)いが。――嘔気(はきけ)はあるんですか」

「どうですか、何とも書いてないから、大方(おおかた)ないんでしょう」

「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。

 私はその晩の汽車で東京を立った。



二十二


 父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、床(とこ)の上に胡坐(あぐら)をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこう凝(じっ)としている。なにもう起きても好(い)いのさ」といった。しかしその翌日(よくじつ)からは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は不承無性(ふしょうぶしょう)に太織(ふとお)りの蒲団(ふとん)を畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」といった。

私(わたくし)には父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。

 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母(ちちはは)の顔を見る自由の利(き)かない男であった。妹は他国へ嫁(とつ)いだ。これも急場の間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。兄妹(きょうだい)三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業を放(ほう)り出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。

「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山(ぎょうさん)な手紙を書くものだからいけない」

 父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床(とこ)を上げさせて、いつものような元気を示した。

「あんまり軽はずみをしてまた逆回(ぶりかえ)すといけませんよ」

 私のこの注意を父は愉快そうにしかし極(きわ)めて軽く受けた。

「なに大丈夫、これでいつものように要心(ようじん)さえしていれば」

 実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈(めまい)も感じなかった。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。

 私は先生に手紙を書いて恩借(おんしゃく)の礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も嘔気(はきけ)も皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の風邪(ふうじゃ)についても一言(いちごん)の見舞を附(つ)け加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。

 私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の噂(うわさ)などをしながら、遥(はる)かに先生の書斎を想像した。

「こんど東京へ行くときには椎茸(しいたけ)でも持って行ってお上げ」

「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」

「旨(うま)くはないが、別に嫌(きら)いな人もないだろう」

 私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。

 先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。

 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰(もら)っていない。その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛(あて)で書いた大変長いものである。

 父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外(そと)へは出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣(きづか)って、私が引き添うように傍(そば)に付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。

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