われらの文学 レオンラジオ 楠元純一郎

16 竟然做到30话了?! 青空文库 夏目漱石 こころ 上 29+30


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オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」

エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」

作詞作曲 楠元純一郎

編曲 山之内馨


二十九


 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々(うんぬん)の掛念(けねん)はその時の私(わたくし)には全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。

 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解(わか)らない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。

 犬と小供(こども)が去ったあと、広い若葉の園は再び故(もと)の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖(と)ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある樹(き)は大概楓(かえで)であったが、その枝に滴(したた)るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日(えんにち)へでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想(めいそう)から呼息(いき)を吹き返した人のように立ち上がった。

「もう、そろそろ帰りましょう。大分(だいぶ)日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」

 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向(あおむ)きに寝た痕(あと)がいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。

「ありがとう。脂(やに)がこびり着いてやしませんか」

「綺麗(きれい)に落ちました」

「この羽織はつい此間(こないだ)拵(こしら)えたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻(さい)に叱(しか)られるからね。有難う」

 二人はまただらだら坂(ざか)の中途にある家(うち)の前へ来た。はいる時には誰もいる気色(けしき)の見えなかった縁(えん)に、お上(かみ)さんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔(じゃま)をしました」と挨拶(あいさつ)した。お上さんは「いいえお構(かま)い申しも致しませんで」と礼を返した後(あと)、先刻(さっき)小供にやった白銅(はくどう)の礼を述べた。

門口(かどぐち)を出て二、三町(ちょう)来た時、私はついに先生に向かって口を切った。

「さきほど先生のいわれた、人間は誰(だれ)でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」

「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」

「事実で差支(さしつか)えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」

 先生は笑い出した。あたかも時機(じき)の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風(ふう)に。

「金(かね)さ君。金を見ると、どんな君子(くんし)でもすぐ悪人になるのさ」

 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰(つま)らなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後(おく)れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。

「そら見たまえ」

「何をですか」

「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」

 待ち合わせるために振り向いて立(た)ち留(ど)まった私の顔を見て、先生はこういった。



三十


 その時の私(わたくし)は腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に拘泥(こだわ)る様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹(ごうはら)になった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。

「先生」

「何ですか」

「先生はさっき少し昂奮(こうふん)なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを滅多(めった)に見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」

 先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応(てごた)えのあったようにも思った。また的(まと)が外(はず)れたようにも感じた。仕方がないから後(あと)はいわない事にした。すると先生がいきなり道の端(はじ)へ寄って行った。そうして綺麗(きれい)に刈り込んだ生垣(いけがき)の下で、裾(すそ)をまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。

「やあ失敬」

 先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段々賑(にぎ)やかになった。今までちらほらと見えた広い畠(はたけ)の斜面や平地(ひらち)が、全く眼に入(い)らないように左右の家並(いえなみ)が揃(そろ)ってきた。それでも所々(ところどころ)宅地の隅などに、豌豆(えんどう)の蔓(つる)を竹にからませたり、金網(かなあみ)で鶏(にわとり)を囲い飼いにしたりするのが閑静に眺(なが)められた。市中から帰る駄馬(だば)が仕切りなく擦(す)れ違って行った。こんなものに始終気を奪(と)られがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ後戻(あともど)りをした時、私は実際それを忘れていた。

「私は先刻(さっき)そんなに昂奮したように見えたんですか」

「そんなにというほどでもありませんが、少し……」

「いや見えても構わない。実際昂奮(こうふん)するんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」

 先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力(しゅうじゃくりょく)をいまだかつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い処(ところ)に、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと盾(たて)を突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。

「私は他(ひと)に欺(あざむ)かれたのです。しかも血のつづいた親戚(しんせき)のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否(いな)や許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供(こども)の時から今日(きょう)まで背負(しょ)わされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ復讐(ふくしゅう)をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」

 私は慰藉(いしゃ)の言葉さえ口へ出せなかった。

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