われらの文学 レオンラジオ 楠元純一郎

27 情感在微妙的变化 青空文库 夏目漱石 こころ 中 15+16


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オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」

エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」

作詞作曲 楠元純一郎

編曲 山之内馨


十五


「先生先生というのは一体誰(だれ)の事だい」と兄が聞いた。

「こないだ話したじゃないか」と私(わたくし)は答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他(ひと)の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。

「聞いた事は聞いたけれども」

 兄は必竟(ひっきょう)聞いても解(わか)らないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。

 先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰(つま)らん人間に限るといった風(ふう)の口吻(こうふん)を洩(も)らした。

「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡(りょうけん)だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘(うそ)だ」

 私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解(わか)るかと聞き返してやりたかった。

「それでもその人のお蔭(かげ)で地位ができればまあ結構だ。お父(とう)さんも喜んでるようじゃないか」

 兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭(めいりょう)な手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。それを母の早呑(はやの)み込(こ)みでみんなにそう吹聴(ふいちょう)してしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。私は死に瀕(ひん)している父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他(た)妹(いもと)の夫だの伯父(おじ)だの叔母(おば)だのの手前、私のちっとも頓着(とんじゃく)していない事に、神経を悩まさなければならなかった。

 父が変な黄色いものも嘔(は)いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。

 兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。

「お前ここへ帰って来て、宅(うち)の事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかった。

「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭(にお)いを嗅(か)いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。

「本を読むだけなら、田舎(いなか)でも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好(い)いだろう」

「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。

「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口(ひとくち)に斥(しりぞ)けた。兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が充(み)ち満(み)ちていた。

「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」

「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」

 兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後(あと)について、こんな風に語り合った。



十六


 父は時々囈語(うわこと)をいうようになった。

「乃木大将(のぎたいしょう)に済まない。実に面目次第(めんぼくしだい)がない。いえ私もすぐお後(あと)から」

 こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元(まくらもと)へ集めておきたがった。気のたしかな時は頻(しき)りに淋(さび)しがる病人にもそれが希望らしく見えた。ことに室(へや)の中(うち)を見廻(みまわ)して母の影が見えないと、父は必ず「お光(みつ)は」と聞いた。聞かないでも、眼がそれを物語っていた。私(わたくし)はよく起(た)って母を呼びに行った。「何かご用ですか」と、母が仕掛(しか)けた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があった。そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。突然「お光お前(まえ)にも色々世話になったね」などと優(やさ)しい言葉を出す時もあった。母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。そうした後ではまたきっと丈夫であった昔の父をその対照として想(おも)い出すらしかった。

「あんな憐(あわ)れっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷(ひど)かったんだよ」

 母は父のために箒(ほうき)で背中をどやされた時の事などを話した。今まで何遍(なんべん)もそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念(かたみ)のように耳へ受け入れた。

 父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言(ゆいごん)らしいものを口に出さなかった。

「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。

「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好(よ)し悪(あ)しだと考えていた。二人は決しかねてついに伯父(おじ)に相談をかけた。伯父も首を傾けた。

「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」

 話はとうとう愚図愚図(ぐずぐず)になってしまった。そのうちに昏睡(こんすい)が来た。例の通り何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、傍(はた)にいるものも助かります」といった。

 父は時々眼を開けて、誰(だれ)はどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻(さっき)までそこに坐(すわ)っていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇(やみ)を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡(こんすい)状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。

 そのうち舌が段々縺(もつ)れて来た。何かいい出しても尻(しり)が不明瞭(ふめいりょう)に了(おわ)るために、要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。我々は固(もと)より不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。

「頭を冷やすと好(い)い心持ですか」

「うん」

 私は看護婦を相手に、父の水枕(みずまくら)を取り更(か)えて、それから新しい氷を入れた氷嚢(ひょうのう)を頭の上へ載(の)せた。がさがさに割られて尖(とが)り切った氷の破片が、嚢(ふくろ)の中で落ちつく間、私は父の禿(は)げ上った額の外(はずれ)でそれを柔らかに抑(おさ)えていた。その時兄が廊下伝(ろうかづた)いにはいって来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。空(あ)いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。

 それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並(なみ)の状袋(じょうぶくろ)にも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧(ていねい)に糊(のり)で貼(は)り付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれを懐(ふところ)に差し込んだ。

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