われらの文学 レオンラジオ 楠元純一郎

34 小偷也是有各种各样的 青空文库 夏目漱石 こころ 下 11+12


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オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」

エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」

作詞作曲 楠元純一郎

編曲 山之内馨


十一


「私は早速(さっそく)その家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは宅中(うちじゅう)で一番好(い)い室(へや)でした。本郷辺(ほんごうへん)に高等下宿といった風(ふう)の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間(ま)の様子を心得ていました。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。

 室の広さは八畳でした。床(とこ)の横に違(ちが)い棚(だな)があって、縁(えん)と反対の側には一間(いっけん)の押入(おしい)れが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向(みなみむ)きの縁に明るい日がよく差しました。

 私は移った日に、その室の床(とこ)に活(い)けられた花と、その横に立て懸(か)けられた琴(こと)を見ました。どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶(せんちゃ)を嗜(たし)なむ父の傍(そば)で育ったので、唐(から)めいた趣味を小供(こども)のうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶(なま)めかしい装飾をいつの間にか軽蔑(けいべつ)する癖が付いていたのです。

 私の父が存生中(ぞんしょうちゅう)にあつめた道具類は、例の叔父(おじ)のために滅茶滅茶(めちゃめちゃ)にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからその中(うち)で面白そうなものを四、五幅(ふく)裸にして行李(こうり)の底へ入れて来ました。私は移るや否(いな)や、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と活花(いけばな)を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後(あと)から聞いて始めてこの花が私に対するご馳走(ちそう)に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。

 こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠(かす)めて通るでしょう。移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気(じゃき)が予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ人慣(ひとな)れなかったためか、私は始めてそこのお嬢(じょう)さんに会った時、へどもどした挨拶(あいさつ)をしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。

 私はそれまで未亡人(びぼうじん)の風采(ふうさい)や態度から推(お)して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君(さいくん)だからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉(ことごと)く打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂(にお)いが新しく入って来ました。私はそれから床の正面に活(い)けてある花が厭(いや)でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。

 その花はまた規則正しく凋(しお)れる頃(ころ)になると活け更(か)えられるのです。琴も度々(たびたび)鍵(かぎ)の手に折れ曲がった筋違(すじかい)の室(へや)に運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖(ほおづえ)を突きながら、その琴の音(ね)を聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解(わか)らないのです。けれども余り込み入った手を弾(ひ)かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して旨(うま)い方ではなかったのです。

 それでも臆面(おくめん)なく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方(いけかた)はいつ見ても同じ事でした。それから花瓶(かへい)もついぞ変った例(ためし)がありませんでした。しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向(いっこう)肉声を聞かせないのです。唄(うた)わないのではありませんが、まるで内所話(ないしょばなし)でもするように小さな声しか出さないのです。しかも叱(しか)られると全く出なくなるのです。

 私は喜んでこの下手な活花を眺(なが)めては、まずそうな琴の音(ね)に耳を傾けました。



十二


「私の気分は国を立つ時すでに厭世的(えんせいてき)になっていました。他(ひと)は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで染(し)み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父(おじ)だの叔母(おば)だの、その他(た)の親戚(しんせき)だのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱(ちんうつ)でした。鉛を呑(の)んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖(とが)ってしまったのです。

 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因(げんいん)になっているように思われます。金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい懐中(ふところ)に余裕ができても、好んでそんな面倒な真似(まね)はしなかったでしょう。

 私は小石川(こいしかわ)へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛(くつろ)ぎを与える事ができませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻(みまわ)していました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は家(うち)のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐(すわ)っていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注(そそ)いでいたのです。おれは物を偸(ぬす)まない巾着切(きんちゃくきり)みたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭(いや)になる事さえあったのです。

 あなたは定(さだ)めて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢(じょう)さんをどうして好(す)く余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な活花(いけばな)を、どうして嬉(うれ)しがって眺(なが)める余裕があるか。同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外(ほか)に仕方がないのです。解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ一言(いちごん)付け足しておきましょう。私は金に対して人類を疑(うたぐ)ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他(ひと)から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。

 私は未亡人(びぼうじん)の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、大人(おとな)しい男と評しました。それから勉強家だとも褒(ほ)めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解(わか)りませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚(おうよう)な方(かた)だといって、さも尊敬したらしい口の利(き)き方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と真面目(まじめ)に説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を宅(うち)へ置くつもりではなかったらしいのです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷(ざしき)を貸す料簡(りょうけん)で、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が豊(ゆた)かでなくって、やむをえず素人屋(しろうとや)に下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸に描(えが)いたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒(ほ)めるのです。なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれは気性(きしょう)の問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体に推(お)し広げて、同じ言葉を応用しようと力(つと)めるのです。

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