われらの文学 レオンラジオ 楠元純一郎

5 突然就高产似那啥了 青空文库 夏目漱石 こころ 上 7+8


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オープニングソング「水魚の交わり(魚水情)」

エンディングソング「バイオバイオバイオ(遺伝子の舟)」

作詞作曲 楠元純一郎

編曲 山之内馨


 私(わたくし)は不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその宅(うち)へ出入(でい)りをするのではなかった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ尊(たっと)むべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際(つきあい)ができたのだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋(つな)ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。それだから尊(たっと)いのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼(まなこ)で研究されるのを絶えず恐れていたのである。

 私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅うちへ行くようになった。私の足が段々繁(しげく)なった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。

「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」

「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔(じゃま)なんですか」

「邪魔だとはいいません」

 なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極(きわ)めて狭い事を知っていた。先生の元の同級生などで、その頃(ころ)東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは皆(みんな)私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。

「私は淋(さび)しい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」

「そりゃまたなぜです」

 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳(いくつ)ですか」といった。

 この問答は私にとってすこぶる不得要領(ふとくようりょう)のものであったが、私はその時底そこまで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経(た)たないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出るや否(いな)や笑い出した。

「また来ましたね」といった。

「ええ来ました」といって自分も笑った。

 私は外(ほか)の人からこういわれたらきっと癪(しゃく)に触(さわ)ったろうと思う。しかし先生にこういわれた時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。

「私は淋(さび)しい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打(ぶ)つかりたいのでしょう……」

「私はちっとも淋(さむ)しくはありません」

「若いうちほど淋(さむ)しいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅(うち)へ来るのですか」

 ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。

「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋(さび)しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを根元(ねもと)から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外(ほか)の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」

 先生はこういって淋しい笑い方をした。




 幸(さいわい)にして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私(わたくし)は、この予言の中(うち)に含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内(うち)いつの間にか先生の食卓で飯(めし)を食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利(き)かなければならないようになった。

 普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因(げんいん)かどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。

 これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除(の)ければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいという外(ほか)に何の感じも残っていない。

 ある時私は先生の宅(うち)で酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍(そば)で酌(しゃく)をしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑(の)み干した盃(さかずき)を差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後(あと)、迷惑そうにそれを受け取った。奥さんは綺麗(きれい)な眉(まゆ)を寄せて、私の半分ばかり注(つ)いで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと先生の間に下(しも)のような会話が始まった。

「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多(めった)にないのにね」

「お前は嫌(きら)いだからさ。しかし稀(たま)には飲むといいよ。好(い)い心持になるよ」

「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快(ゆかい)そうね、少しご酒(しゅ)を召し上がると」

「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」

「今夜はいかがです」

「今夜は好(い)い心持だね」

「これから毎晩少しずつ召し上がると宜(よ)ござんすよ」

「そうはいかない」

「召し上がって下さいよ。その方が淋(さむ)しくなくって好いから」

 先生の宅(うち)は夫婦と下女(げじょ)だけであった。行くたびに大抵(たいてい)はひそりとしていた。高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或(あ)る時(とき)は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。

「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅(うるさ)いもののように考えていた。

「一人貰(もら)ってやろうか」と先生がいった。

「貰(もらい)ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。

「子供はいつまで経(た)ったってできっこないよ」と先生がいった。

 奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。


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