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monukeさんよりご提供の楽曲「harumachi」、「city lights」を使わせていただきました。
monukeさんのファーストアルバム「不在」も絶賛リリース中です。
ぜひ合わせてお聞きください。
水中喫茶では楽曲を募集しております。
もしご提供くださる方がいましたら、以下のフォームからお願いいたしますm(_ _)m
また感想や質問もありましたら嬉しいです。
・曲提供(音声やその他宣伝でも可)
・感想や質問
・X
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いつもそこに変わらずにいてくれる、とは限らない。どうでも良くなってしまうくらいに、世界はくるくるというか、ぐるぐる回っていて、誰かがまわしたコーヒーカップみたい、それみたいに自分にはコントロールできなくて、めがまわってうごけなくなるようなかんかくになったりする。じぶんがまわしたらきっとめがまわっているじぶんがまわすかぎり、たにんがまわすよりはめがまわらないのだろうか、といまいちな思考実験をしてみても、氷が溶けるみたいに、それは実際はただ単純に寂しいと感情の規定の仕方の云々であって、寂しさの神経物質が分泌されているだけの状況記述で事足りる。三半規管は全く関係がない。目は廻らない、目を回さない。レコードやCDを再生する時に、くるくる回る円盤を目で追わずに、音楽だけを聴くということ。プレイヤーやボーカリストの美醜を目で追わずに、ただ音楽を聴くということ。そんなことを考えているうちに、monukeさんの、「不在」、というアルバムのタイトルについて勝手に思いを幾らか巡らしていた。ボーカロイドの楽曲しかないということから、人間の歌手が「不在」である、という意味もあるかもしれない。誰一人も世界から取りこぼしたりしたくないという、全方位に向けた楽曲であるという意味で、すべての人に向けられているという意味で、対象にしていないリスナーは「不在」である=みんなに聴いてほしい、という意味もあるかもしれない。時代が経っても、この楽曲たちが宅急便の「不在」伝票のように世界に残って欲しい、という意味もあるかもしれない。アルバムのジャケットには、部屋のベランダの写真のようなイラストが白い背景に飾られている。やはり、人がいないという意味を意図しているようにも、そのジャケットから伺えて、でも人がいないというのはどういうことなのだろう。水中喫茶を聴いていると、たまに三人ではなく二人、ごくまれに一人だけで、話されている回がある。その時に、三人ではない、という感じ、不在の感じ、というのが強くする。初めから一人だったらそんな感覚は元からないだろうに、三人での記憶がそういう感覚を惹起する、ということなのかもしれない。これはセンチメンタルといえばそうだけれど、そうではないといえばそうではなくて、単純に身体が反応しているだけで、治る後遺症みたいな感じなのだと思う。と、ここまで書いて、本編と関係のない内容の文章だと思い返してはみて、本編と関係のある文書を書こうとしてみようと思おうと思うけれど、何だか腰が重たい。腰が重たい。自分にはそういう時があって、他の人にもそういう時があるとも思う。文章に義務を背負わせることを良いことだと思わないのである。書きたいことを書けばいいし、読みたいことを読めばいいし、読みたいことがなければ読みたいことを書けばいいと思う。もし自分の中に編集者の自分がいたら、「先生、今回は水中喫茶の概要欄の執筆ですから、ある程度は水中喫茶の本編に絡めた内容でお願い出来ないでしょうか、先生」と執筆者の自分(もう一人の自分)に声をかけるだろう。けれど、monukeさんのアルバムについて何となく書きたい、言い触れたい自分にとって、その編集者の自分の声には耳を塞ぎたくもなる。そういう時は居留守を使うと良くて、編集者の自分を「不在」にするのではなくて、執筆者の自分を「不在」にすればいいと少し思う。いるんだけれどいない、という状態。「先生、先生…?何だ、留守か」と編集者の自分を一時帰宅させること、たまにはそういう日があってもいいと思うし、そういう日がほとんどでもいいかもしれない。とここまで書いて、ここまで書いた文章をここまで消さずにいる理由が必要に思えてくるけれど、その理由を書く理由も必要になるわけだろうか、などと考えると、もう何だかどうでも良くなってしまう。そういえば、学校の先生が「不在」になって、自習の時間になった時に、ある生徒は別の授業で出されたプリントをやっていたり、ある生徒は朝読書で読んだ文庫本を読んでいたり、ある生徒は後ろを向いて話していたり、ある生徒は机に突っ伏して寝たりしていた。統率をとるものがないとそういう状態になるのが常で、今の自分はそういう状態なのかもしれない。無茶苦茶にも振り切れず、理路整然にも踏み切れない。ところで、「不在」という言葉は、どこかでいつか帰ってくるという意味を孕んでいる(はらんでいる)ようにも感じる。外出、に近い意味にすら思えてくる。いつか帰ってくる、ということ。こうやって、よく分からない文章を書いていたとしても、何かに向かって書き進めていることは確かで、きっといつか辿り着くような幻想を覚えながら、文字を打っている。でも、その辿り着きは幻想で、幻想というかまだもう少し遠い未来の話で、戻るべき起点へと戻るのはもう少し先の話なのかもしれない。もう眠たいのでそういう結論にしてしまおうと思うけれど、どうですかね、編集者。もう寝た方が良いです、先生
monukeさんよりご提供の楽曲「harumachi」、「city lights」を使わせていただきました。
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いつもそこに変わらずにいてくれる、とは限らない。どうでも良くなってしまうくらいに、世界はくるくるというか、ぐるぐる回っていて、誰かがまわしたコーヒーカップみたい、それみたいに自分にはコントロールできなくて、めがまわってうごけなくなるようなかんかくになったりする。じぶんがまわしたらきっとめがまわっているじぶんがまわすかぎり、たにんがまわすよりはめがまわらないのだろうか、といまいちな思考実験をしてみても、氷が溶けるみたいに、それは実際はただ単純に寂しいと感情の規定の仕方の云々であって、寂しさの神経物質が分泌されているだけの状況記述で事足りる。三半規管は全く関係がない。目は廻らない、目を回さない。レコードやCDを再生する時に、くるくる回る円盤を目で追わずに、音楽だけを聴くということ。プレイヤーやボーカリストの美醜を目で追わずに、ただ音楽を聴くということ。そんなことを考えているうちに、monukeさんの、「不在」、というアルバムのタイトルについて勝手に思いを幾らか巡らしていた。ボーカロイドの楽曲しかないということから、人間の歌手が「不在」である、という意味もあるかもしれない。誰一人も世界から取りこぼしたりしたくないという、全方位に向けた楽曲であるという意味で、すべての人に向けられているという意味で、対象にしていないリスナーは「不在」である=みんなに聴いてほしい、という意味もあるかもしれない。時代が経っても、この楽曲たちが宅急便の「不在」伝票のように世界に残って欲しい、という意味もあるかもしれない。アルバムのジャケットには、部屋のベランダの写真のようなイラストが白い背景に飾られている。やはり、人がいないという意味を意図しているようにも、そのジャケットから伺えて、でも人がいないというのはどういうことなのだろう。水中喫茶を聴いていると、たまに三人ではなく二人、ごくまれに一人だけで、話されている回がある。その時に、三人ではない、という感じ、不在の感じ、というのが強くする。初めから一人だったらそんな感覚は元からないだろうに、三人での記憶がそういう感覚を惹起する、ということなのかもしれない。これはセンチメンタルといえばそうだけれど、そうではないといえばそうではなくて、単純に身体が反応しているだけで、治る後遺症みたいな感じなのだと思う。と、ここまで書いて、本編と関係のない内容の文章だと思い返してはみて、本編と関係のある文書を書こうとしてみようと思おうと思うけれど、何だか腰が重たい。腰が重たい。自分にはそういう時があって、他の人にもそういう時があるとも思う。文章に義務を背負わせることを良いことだと思わないのである。書きたいことを書けばいいし、読みたいことを読めばいいし、読みたいことがなければ読みたいことを書けばいいと思う。もし自分の中に編集者の自分がいたら、「先生、今回は水中喫茶の概要欄の執筆ですから、ある程度は水中喫茶の本編に絡めた内容でお願い出来ないでしょうか、先生」と執筆者の自分(もう一人の自分)に声をかけるだろう。けれど、monukeさんのアルバムについて何となく書きたい、言い触れたい自分にとって、その編集者の自分の声には耳を塞ぎたくもなる。そういう時は居留守を使うと良くて、編集者の自分を「不在」にするのではなくて、執筆者の自分を「不在」にすればいいと少し思う。いるんだけれどいない、という状態。「先生、先生…?何だ、留守か」と編集者の自分を一時帰宅させること、たまにはそういう日があってもいいと思うし、そういう日がほとんどでもいいかもしれない。とここまで書いて、ここまで書いた文章をここまで消さずにいる理由が必要に思えてくるけれど、その理由を書く理由も必要になるわけだろうか、などと考えると、もう何だかどうでも良くなってしまう。そういえば、学校の先生が「不在」になって、自習の時間になった時に、ある生徒は別の授業で出されたプリントをやっていたり、ある生徒は朝読書で読んだ文庫本を読んでいたり、ある生徒は後ろを向いて話していたり、ある生徒は机に突っ伏して寝たりしていた。統率をとるものがないとそういう状態になるのが常で、今の自分はそういう状態なのかもしれない。無茶苦茶にも振り切れず、理路整然にも踏み切れない。ところで、「不在」という言葉は、どこかでいつか帰ってくるという意味を孕んでいる(はらんでいる)ようにも感じる。外出、に近い意味にすら思えてくる。いつか帰ってくる、ということ。こうやって、よく分からない文章を書いていたとしても、何かに向かって書き進めていることは確かで、きっといつか辿り着くような幻想を覚えながら、文字を打っている。でも、その辿り着きは幻想で、幻想というかまだもう少し遠い未来の話で、戻るべき起点へと戻るのはもう少し先の話なのかもしれない。もう眠たいのでそういう結論にしてしまおうと思うけれど、どうですかね、編集者。もう寝た方が良いです、先生