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正確に言えばものの3分程度の間だ。しかし女の涙というものを経験したことがない彼にとっては、京子の顔が自分の胸の内にあるという時間は途方も無く長いものに感じられた。
「お父さんに近づけると思った...。」
相馬の胸に顔を埋めたまま、彼女は消え入るような声を発した。
「え?」
「お父さんが何を考えとるんか、少しでも分かればいいと思って引き受けてん...。」
「え?何のことけ?」
「一色さんの手紙の件。」
ごめんと言って彼女は相馬の手を解き、テーブルに置かれていたティッシュを何枚か引き抜いて、それで自分の目の辺りを拭った。
ため息を付き、天井を見つめて気持ちを落ち着かせたのか、彼女は再び相馬と向い合って座った。
「…どういうことけ。」
「ウチ、お父さんもお母さんもダメねん。」
「え…。」
「お母さん、正直お父さんに愛想つかしとれん。」
なるほどそういうことかと京子の母がこの時間に家にいないことが妙に腑に落ちた。反面、なんとも気まずい気持ちが彼の心を覆う。
「だって嘘ついとるげんもん…。」
「嘘?」
「うん。」
「京子ちゃんのお父さんが?」
京子は頷いた。
「あの人、警察辞めとらんげんわ。」
「え...なんでそんなこと言えらん…。」
「ほんなもん分かるわいね。いくら商社勤めって言ったって、こんなに家空けて全国各地で営業なんかせんわいね。」
「でも行商みたいに全国行脚する商売だってあるがいね。」
「あの人は警察のOBがおる会社に行ってんよ。警察関係者が何人も居る会社がそんな営業会社って考えにくくない?」
「まぁ…。」
京子の言うことはもっともだ。京子の父は営業とは無縁の公務員、とりわけ警察官である。大学3年の娘を抱えるような年齢にも関わらず、今までのキャリアを捨て、ある日突然行商に近い営業会社に転職するだろうか。確かに普通に考えれば不自然だ。
「私、1回あの人の会社に行ってみてん。」
「うそやろ…。」
「あの人のスーツのポケットに名刺入っとったし、その住所調べて実際に行ってみてん。ほしたらただのマンションやってん。」
「マジで。」
「うん。んでネットで間取り調べたら、どの部屋も1LDKか2DKの狭い部屋ばっかり。あんなところに何人も従業員おる会社なんか考えにくいわ。」
「…そうやね。」
相馬は彼女の行動力に唖然とした。
「ほやし多分あの人、まだ警察やと思えん。私らを欺いてまでもせんといかん仕事があったんやと思えん。」
「まぁ…俺は警察の仕事とかってさっぱり分からんから、何とも言えんけど…。」
「仕事が仕事やから分かれん。多少の嘘つくんは。ただ…ね…。こんなに長い間、騙されとったって分かって正直がっくりきてん。」
「じゃあいままではどうやったん?お父さんは。」
「今までは家空ける日が多い時は、仕事の関係でどうしても帰れんとか、一応私らに報告入れてくれとってん。」
「ふうん。一応嘘はついとらんかったってわけか。」
「警察辞めてから普通の生活が送れるとかあの人喜んどってんに、それはつかの間のこと。今の会社に勤めだしてから出張出張。」
「そうなんけ。」
「ほんで出張も勤務先の会社の存在も全部嘘やろ。そんなこと分かってしまって、あの人のことどうやって信じればいいっていうがん?」
まるで自分が責められているように受け止められた相馬は、ただ黙るしかなかった。
「『お父さんだって辛いげんよ。好きで嘘ついとるわけじゃないげんよ。』とかってお母さんは頻りにあの人のこと私に弁護するけど、ほんなん形だけやわ。」
「え?なんで?」
「新車買ったこと口実にして友達と一緒にドライブとかって言って、本当のところ男の人と会っとるもん。」
「え…。」
「今日だって私に出かけるとか何も言っとらんし、ほんで携帯に電話しても繋がらんし。」
「それ…って…本当なんけ。」
「本当やわいね。私見たことあるもん。変なメガネがウチに時々来とるの。」
相馬は絶句した。
「いい歳こいて若めの男に熱上げとるとこなんか、見とれんよ。」
「京子ちゃん…。」
なるほど。先ほど京子が母の帰りがわからないといったのは、わかりたくないという願望が篭ってのものだったのか。
「ほんであー住みにくいわ、この家…みんな嘘つきやわって思っとった時に、この間の北高やってん。」
「あ…おう。」
このまま片倉家の家庭の事情を吐露されても、自分には受け止めきれるだろうか。そう不安を感じつつも京子の言に耳を傾けていた相馬は、ここでの話題の転換に内心ホッとした。
「一色さんからの手紙って西田先生から貰ったとき、正直わたしすっごい面倒くさかってん。」
「え?だってあの時京子ちゃんのほうが乗り気やったがいね。」
京子は頭をふる。
「ううん。はじめは何なんこの展開って思った。」
「じゃあなんで?」
「なんかふと思い出してん。そう言えばあの人、時々一色さんのこと家でこぼしとったなぁって思って。」
「え?どういうこと。」
「あの人がまだ警察辞める前ねんけど…。」
そう言って京子は当時を振り返り始めた。
ー熨子山事件発生の半年前ー
「ただいま。」
高校から帰宅した京子は玄関で靴を脱ぎ、そのまま階段を登って自分の部屋に向かった。
「京子。」
ジャージ姿の片倉が呼んだため、彼女は途中で足を止めて振り返った。
「なに?」
「お前な、一応帰ったら家族に顔見せれま。」
「あーおったんや。」
「おったんやじゃない。帰ってきたら悪いんか。靴もちゃんと揃えなさい。」
「はいはい。」
「はいは一回でいい。」
「はい。ごめんなさい。」
京子は片倉にペコリと頭を下げた。
「よし。ちょっといいか。」
片倉はリビングの戸を開けて京子を中に通そうとした。
「え?何ぃね。」
「お前に聞きたいことがあるんや。」
「えーシャワー入りたい。」
「ちょっとのことや。いいがいやんなもん。」
「稽古で汗臭いよ。べっとべとやよ。」
「あ…じゃあその後でいいから。」
シャワーから上がり、濡れた髪の毛をバスタオルで拭きながら京子はリビングにやってきた。母はキッチンに立ち夕飯の支度をしている。
「んで何けお父さん?」
新聞紙を広げていた片倉はそれを畳んだ。
「あぁ京子、一色って奴知っとるか。」
「一色?」
「おう。京子のとこの部活の先輩や。結構むかしの人間やけど。」
「あー知っとるわいね。」
「おう、どう知っとる。」
「ウチら剣道部の歴史の中で唯一県体で団体戦で準優勝の成績収めたときの部長や。」
「あ、ほうか。」
「どうしたん。」
冷蔵庫からアイス棒を取り出してそれを咥えながら京子は片倉を見つめた。
「京子はその一色と面識あるんか。」
「うん。」
「え?いつ?」
「え?ほんのつい最近。」
「つい最近って?」
「先週。」
「先週?どういうきっかけで。」
「…なんか久しぶりに稽古したくなったからって言って、防具持ってウチの学校まできて稽古つけに来てくれてん。」
「稽古?」
「うん。」
「で。」
「でって…。随分ご無沙汰やって言って、正直体が動くか分からんけどって言っときながら、実際稽古したら私らこてんぱんにやられてん。」
「ほんで。」
「良い動きしとるからその調子で頑張ってって言われた。」
「で。」
「え…ほんでこれやったほうがもっと伸びるよってメニューくれた。」
「なんやそのメニューって。」
「かかり稽古と囲碁の本。」
「は?何?かかりはわかるけど、囲碁?」
「うん…。」
「なんでや。」
「なんでって…なんかお父さんに取り調べされとるみたい…。」
「あ…すまん…。」
ビールグラスをテーブルに置いた片倉はため息をついた。
「何?どうしたん?」
「いや…なんでもない…。」
「なんでもないわけないがいね。第一なんでお父さん、一色さんの事知っとらん?」
「え?いや…別に…。ちょっとな。」
「なんでそんなにガッパになってあの人のこと聞くん?まさか…あの人のこと捜査しとるとか…。」
「いや、そんなんじゃない。」
「じゃあどんなん?」
片倉はジャージのポケットからハンカチを取り出して、それをテーブルの上においた。
「あ、それ私がお父さんに上げたハンカチやがいね。」
「おう。これアカフジってブランドやろ。」
「うん。」
「イタリアのブランドで鞄とか財布とかの小物中心に結構人気ある。お前の財布もここのやつや。」
「へぇ勉強したんや。」
「勉強じゃないって、その一色が俺に教えてくれたんや。」
「え?何?一色さんってお父さんの知り合いとか?」
「まぁ…そんなところや。最近ときどき顔合わせるようになったんや。」
「えーうそー!?」
「んで、このハンカチは娘から貰ったから正直そんなブランドのこととか分からんわっていったら、その娘さんってまさか京子とかって名前の子かって聞いてきた。」
「え?」
「この間、久しぶりに母校で剣道の稽古をやった時に垂れに片倉って書かれた女の子がおって、その子もアカフジの財布持って自販機で飲み物買っとったのを覚えとってってな。」
「うそ…一色さん。私のこと覚えてくれとったんや。ってか…すっごい偶然…。」
この時京子の頬に赤みが刺したのを片倉は見逃さなかった。
「何やお前。」
彼は怪訝な顔で京子を見た。
「ねぇねぇお父さん。一色さんって何しとる人なん?」
「あ?」
「あの人確か東一行っとれん。頭すっごいいいげん。」
「知らんわいや。」
「剣道も強いし頭もいいってチートすぎんけ。」
「は?チート?なんやそれ。知らん。興味ない。」
「何でぇね。私ら北高剣道部の中やったらレジェンドやよ。レジェンド。」
「けっ何がレジェンドや。」
「お父さんとあの人が偶然接点があるってのも何かのご縁やと思うよ。ご縁は大切にしといて損はせんよ。」
「だら。」
「え?」
「あいつはお前が思っとるほど良い奴じゃない。」
「何ぃね。なにヤキモチ焼いとらん。」
「なんで娘にヤキモチなんか焼くぃや。」
「じゃあ何なん。ほんなら何で一色さんのこと私に探ろうとしたん?最近知り合ったピッカピカの男が何でか分からんけど自分の娘と接点あって、妙にその娘のことを覚えとって、ひょっとしてその男が娘をたぶらかそうとしとるんじゃないかってヤバいって思ったんじゃないが?」
キッチンに立っている母はこの京子の物語にクスリと笑った。
「違う。」
「何なん急にぶすっとして。せっかくのご縁やがいね。」
「京子。」
片倉は改まって京子を見た。
「いいか。父親としてお前に忠告しておく。あの男とは関わるな。」
「なんで?」
「理由はここでは言えん。とにかくあの男とは距離を置け。」
忠告の意味を持つ片倉の鋭い眼差しに京子は口を噤んだ。
「ただ、どうしてもあいつと関わるというなら、すべてを引き受ける覚悟で行け。一色だけじゃない。世の中にはそういう人種の人間っておるんや。それだけを京子、お前に言いたかったんや。」
料理ができたようだ。料理をテーブルに並べるその時の母の口元には、何故か薄っすらと笑みが浮かんでいたように思える。
「京子。そういやお前、相馬さん家の周くんとはどうなんや。」
「え?」
「一色もいいかもしれんけど、お前身近にもっと良い奴居るんじゃないんか?」
「はぁ?周?」
「おう。同じ剣道部の部長同士。なんかうまい話でもないがか?」
「ちょ…ちょっと!! 変なこと言わんといてま!」
片倉の忠告にどこかぎこちない空気が漂った食卓であったが、このやり取りがこの場を和ませた。