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奈良時代。
飛騨の国で生まれた主人公(女性)は男として育てられ、飛騨の匠という木工技師になった。折しも奈良では、法隆寺建立の真っ最中。彼女は八角形のお堂の屋根につけられる露盤宝珠を作っていた・・・(CV:桑木栄美里)
飛騨匠(ひだのたくみ)。
その呼び名は”誉”(ほまれ)なのか。
それとも・・・
大化の改新からもう90年以上たつ天平(てんぴょう)の世にあっても、
飛騨の山奥に住まう者たちは決して豊かではない。
それゆえに、100名もの匠がこうして奈良の都までかりだされ、
寺院のお堂を作っている。
しかも、男性の匠たちのなかにあって、
実は・・・・私は、おんな。
性を隠し、匠の衣服をまとい、男として伽藍建立(がらん-こんりゅう)に携わっている。
SE〜山の中のノイズ(鳥の声)
20年前、私は、山深い飛騨の国で生まれた。
生まれてすぐ両親を亡くし、匠の棟梁に引きとられたあとは、
男として仏師の修行に明け暮れた。
生まれつき、手先が起用だったのが幸いしたのだろう。
私が彫り出す一位一刀彫の仏像は都で人気となった。
だが仏像より、ほかの誰にも真似できないと言われたのが、
指南車(しなんしゃ)のからくりだ。
指南車、というのは、上に乗せた人形が南を指し続ける車のこと。
私が作るからくり人形は、どの匠が作るものより、正確に南を指した。
寺院や大仏建立の際は、棟梁とともに都にあがり、匠として働いた。
棟梁は毎日朝から寺院作りに出かける。
匠たちは、寺院建立の現場近くに、かりそめの工房を設けて腕をふるった。
私は寺院建立の現場へはいかず、貴族たちの邸宅へ向かう。
貴族たちの依頼で、からくりに「下がり藤」の紋様を刻み指南車にとりつけるのだ。
指南車は都の貴族たち上流階級の人たちだけが使う車。
みな競って匠に豪華なからくりを作らせる。
私は小さい頃から歯車を作るのが大好きだった。
いつしか、歯車で動く虫を作って周りを驚かせるのが楽しみになっていた。
指南車の仕組みも原理は歯車。
車が向きを変えると左右の車輪は回転数に違いが出る。
その回転数の差を瞬時に計算し、からくり人形の歯車を反対に回せばいい。
言うのは簡単。
でも私は、昔からこういう計算が好きだった。
正確に南を指し、目的地へ導く私のからくりは
皇族たちの間にまで評判になっていった。
やがて、平城京に”疱瘡(ほうそう)”という流行り病が蔓延した。
あろうことか棟梁は、流行り病に倒れ、帰らぬ人となってしまった。
都にひとり取り残された私は、貴族たちから離れ、
人手が足りなくなってしまった寺院の現場へかりだされた。
大勢の匠たちが作ろうとしているのは、法隆寺の正殿。
そもそも、法隆寺自体、厩戸皇子(うまやどのおうじ)の命で
飛騨匠が作ったのだ。
いつしか、都の流行り病は、皇子の怨霊による祟りだと噂され、
正殿建立の目的はそれを鎮めることとなっていく。
私が任されたのは、八角形のお堂の屋根につけられる、
露盤宝珠(ろばんほうじゅ)という飾り。
露盤とは本来「仏舎利(ぶっしゃり)」というお釈迦さまの遺骨を入れる骨壷。
私は、球(たま)の形をした露盤に「光芒(こうぼう)」という光の筋をつける。
後光のようにも見えるこの宝珠を彫り出すのだ。
私にとっては、正殿の建立は怨霊を鎮める目的などではない。
亡き棟梁の供養のため、精魂込めてノミをふるった。
こうして、尊い命を犠牲にして、法隆寺の正殿は完成した。
かつて100年前には、厩戸皇子が政(まつりごと)をおこなった
斑鳩宮(いかるがのみや)その地に。
本尊は、亡き棟梁が彫り上げた救世観音(くせ-かんのん)。
神々しく輝くその姿は、見るもの誰もが瞳を潤ませる。
SE〜山道を歩く音
華々しく落成式が執り行われたその日、
私は飛騨への帰路を急いでいた。
手に持った小さなふろしき包みには、木彫りの箱が入っている。
私が作った、釘を使わず木組みで作った白木の箱。
そこには、棟梁の形見のノミが入っている。
私にとっては、もうひとつの露盤。
救世観音に守られた、大切な道具だ。
誰が建てたお堂だとか、誰が作った仏像だとか。
そんな名誉も、後世に残る名前もいらない。
私は私。
私の名前は、飛騨の匠。
奈良時代。
飛騨の国で生まれた主人公(女性)は男として育てられ、飛騨の匠という木工技師になった。折しも奈良では、法隆寺建立の真っ最中。彼女は八角形のお堂の屋根につけられる露盤宝珠を作っていた・・・(CV:桑木栄美里)
飛騨匠(ひだのたくみ)。
その呼び名は”誉”(ほまれ)なのか。
それとも・・・
大化の改新からもう90年以上たつ天平(てんぴょう)の世にあっても、
飛騨の山奥に住まう者たちは決して豊かではない。
それゆえに、100名もの匠がこうして奈良の都までかりだされ、
寺院のお堂を作っている。
しかも、男性の匠たちのなかにあって、
実は・・・・私は、おんな。
性を隠し、匠の衣服をまとい、男として伽藍建立(がらん-こんりゅう)に携わっている。
SE〜山の中のノイズ(鳥の声)
20年前、私は、山深い飛騨の国で生まれた。
生まれてすぐ両親を亡くし、匠の棟梁に引きとられたあとは、
男として仏師の修行に明け暮れた。
生まれつき、手先が起用だったのが幸いしたのだろう。
私が彫り出す一位一刀彫の仏像は都で人気となった。
だが仏像より、ほかの誰にも真似できないと言われたのが、
指南車(しなんしゃ)のからくりだ。
指南車、というのは、上に乗せた人形が南を指し続ける車のこと。
私が作るからくり人形は、どの匠が作るものより、正確に南を指した。
寺院や大仏建立の際は、棟梁とともに都にあがり、匠として働いた。
棟梁は毎日朝から寺院作りに出かける。
匠たちは、寺院建立の現場近くに、かりそめの工房を設けて腕をふるった。
私は寺院建立の現場へはいかず、貴族たちの邸宅へ向かう。
貴族たちの依頼で、からくりに「下がり藤」の紋様を刻み指南車にとりつけるのだ。
指南車は都の貴族たち上流階級の人たちだけが使う車。
みな競って匠に豪華なからくりを作らせる。
私は小さい頃から歯車を作るのが大好きだった。
いつしか、歯車で動く虫を作って周りを驚かせるのが楽しみになっていた。
指南車の仕組みも原理は歯車。
車が向きを変えると左右の車輪は回転数に違いが出る。
その回転数の差を瞬時に計算し、からくり人形の歯車を反対に回せばいい。
言うのは簡単。
でも私は、昔からこういう計算が好きだった。
正確に南を指し、目的地へ導く私のからくりは
皇族たちの間にまで評判になっていった。
やがて、平城京に”疱瘡(ほうそう)”という流行り病が蔓延した。
あろうことか棟梁は、流行り病に倒れ、帰らぬ人となってしまった。
都にひとり取り残された私は、貴族たちから離れ、
人手が足りなくなってしまった寺院の現場へかりだされた。
大勢の匠たちが作ろうとしているのは、法隆寺の正殿。
そもそも、法隆寺自体、厩戸皇子(うまやどのおうじ)の命で
飛騨匠が作ったのだ。
いつしか、都の流行り病は、皇子の怨霊による祟りだと噂され、
正殿建立の目的はそれを鎮めることとなっていく。
私が任されたのは、八角形のお堂の屋根につけられる、
露盤宝珠(ろばんほうじゅ)という飾り。
露盤とは本来「仏舎利(ぶっしゃり)」というお釈迦さまの遺骨を入れる骨壷。
私は、球(たま)の形をした露盤に「光芒(こうぼう)」という光の筋をつける。
後光のようにも見えるこの宝珠を彫り出すのだ。
私にとっては、正殿の建立は怨霊を鎮める目的などではない。
亡き棟梁の供養のため、精魂込めてノミをふるった。
こうして、尊い命を犠牲にして、法隆寺の正殿は完成した。
かつて100年前には、厩戸皇子が政(まつりごと)をおこなった
斑鳩宮(いかるがのみや)その地に。
本尊は、亡き棟梁が彫り上げた救世観音(くせ-かんのん)。
神々しく輝くその姿は、見るもの誰もが瞳を潤ませる。
SE〜山道を歩く音
華々しく落成式が執り行われたその日、
私は飛騨への帰路を急いでいた。
手に持った小さなふろしき包みには、木彫りの箱が入っている。
私が作った、釘を使わず木組みで作った白木の箱。
そこには、棟梁の形見のノミが入っている。
私にとっては、もうひとつの露盤。
救世観音に守られた、大切な道具だ。
誰が建てたお堂だとか、誰が作った仏像だとか。
そんな名誉も、後世に残る名前もいらない。
私は私。
私の名前は、飛騨の匠。