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『千里眼』は、明治・大正時代に活躍しながらも、その研究ゆえに学会を追われた心理学者・福来友吉博士の生涯を描いた作品です。
彼が追い求めたものは、人知を超えた力――透視や念写という超常現象の実証でした。
千里眼の能力を持つとされた御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子との実験を通じて、科学と神秘の狭間で揺れ動いた彼の人生。
そして、その裏には決して消えることのない「ある想い」がありました。
本作は、Podcast番組「Hit’s Me Up!」の公式サイトをはじめ、Spotify、Amazon、Appleなどの各種Podcastプラットフォームでも配信中です。
音声で体験することで、より鮮やかに当時の時代背景や福来博士の心情に触れることができるでしょう。
科学か、幻想か。
果たして彼が最後に見た“真実”とは――?(CV:桑木栄美里)
【ストーリー】
<『千里眼』>
【資料/国立国会図書館「第13回/千里眼事件とその時代」】
https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/13/1.html
<シーン1/明治39年(1906)〜福来友吉邸>
■SE/朝の雑踏
『占いだって?』
『気持ちはわかるけどね』
『そういう非科学的な理由で学会を休むことなどできないよ』
明治39年の春。
いつになく、思い詰めた表情で妻が私に進言した。
その日午後から東京で予定されている心理学会。
そこに行くのをどうしてもやめてほしいと言う。
占い師から今日は外出しないよう強く言われたそうだ。
普段ならそのくらいやぶさかではないのだが、今日は特別な日。
私の著書『催眠術の心理学的研究』に基づいた発表をせねばならない。
私の名前は福来友吉。
東京帝国大学で研究を続ける心理学者である。
妻のタツとは明治女学校時代からの長い付き合いだ。
昔から口の立つ婦女子だが、たかが占いごときでここまで食い下がるとは。
私もつい強い口調で答えてしまった。
諍いのあと、いつものように2人で高山駅へ。
車の中でタツは目線を一切合わさず、一言も口をきかなかった。
汽車に乗り冷静になって思う。
帰ったら、素直に謝らねば。
さすれば、きっといつものカラっとした調子で迎えてくれるだろう。
しかし、謝罪は叶わなかった。
駅からの帰り道。
妻は、運悪く車にはねられ、帰らぬ人となってしまったのだ。
訃報が届いたのは、東京帝国大学での発表が終わったとき。
私にとっては、悔やんでも悔やみきれない悲劇であった。
<シーン2/明治43年〜東京帝国大学心理学実験室>
■SE/実験中の音
『し、信じられない!こんなことがあるものか』
東京帝国大学の心理学実験室。
目の前で起こっている出来事に私の脳が追いつけない。
『千里眼』。
密閉された箱の中にある名刺を、一人の女性が次々と読み上げる。
京都帝国大学医学部の博士とともにおこなったとある実験。
それは、透視能力という、人智を超えた力を確かめる実験だった。
女性の名は御船千鶴子(みふね ちずこ)。
熊本の主婦である。
千鶴子は義理の兄から催眠術で、
『透視ができるようになる』と暗示をかけられたそうだ。
実は、私もかねてから注目していたのが、催眠心理学。
催眠状態のとき、ヒトはしばしば平常時と比べて知覚が鋭敏となる。
千鶴子の千里眼は、梅の幹の中にいる虫を見つけたり、
海で無くした指輪の場所を干潮時にピタリと言い当てた。
亡き妻のこともあり、私は超常現象というものを
心理学の視点から解き明かしたいと考えている。
まさに、我が意を得たり。
私は、催眠心理学の研究にのめり込んでいく。
ハレー彗星の出現が人々の心を不安にさせていた明治43年のことだった。
実験の結果を新聞社に発表すると、世は『千里眼ブーム』となっていく。
同じような能力を持つ者たちが次々と現れた。
<シーン3/明治43年〜香川県丸亀市>
■SE/浜辺の音
香川県丸亀市の夫人、長尾郁子は予知能力を持つ女性。
新聞で千鶴子のことを知り、自分もやってみたらできたという。
私はさっそく郁子と会うために、丸亀へ赴いた。
郁子は思っていたよりも小柄で普通の主婦。
だが持っていたのは透視能力だけではなかった。
現像していない写真の乾板(かんぱん)の上に文字を感光させるのだ。
私はこれを『念写』と名付けた。
念じた文字を現像する写真に写し出す。
無から有を生み出すこと。
公開実験は続けられ、念写もまた、世間に発表された。
世の中に透視、念写といった超常能力ブームが蔓延していく。
明治43年の夏であった。
ところが、いつの時代でも批判や否定論者は必ず現れる。
我々の実験に疑問を抱いたのは一部の理論物理学者や懐疑派の記者たち。
フィルムや透視箱をインチキと決めつけ反論運動が始まった。
世の中というものは恐ろしい。
超常現象に懐疑的な人々は、非難の嵐で一斉に攻撃してくる。
公開実験を行なっても、不的中なら非難され、的中なら詐術(さじゅつ)を疑われた。
偽者呼ばわりされた千鶴子は自ら命を断ち、
郁子もまた失意のうちに病死。
心が折れそうになっていく。
<シーン6/大正2年〜東京帝国大学心理学実験室>
■SE/研究室の音
逆風が吹き荒れる大正2年。
私は3人目の超能力者と出会う。
高橋貞子。
心理学的にも極めて興味深いのは、その性格。
他人に対しては不愛想である一方で、困っている人には手を差し伸べずにはいられない。
同情心の深い貞子が私の3人目の被験者になった。
目の前で、手にした火箸が動いていく。
それは火鉢の中に「清(せい)」-『清い』という文字を描いた。
透視実験でも、貞子はことごとく的中させた。
この結果を受けて翌年。
大正3年9月に私は一冊の研究書を刊行した。
”透視と念写”
『透視は事實である。念寫も亦事實である』。
数々の実験によって得てきた確信を文字にしたためたのである。
残念ながら結果は予想通り。
世の中に吹き荒れる逆風の中で私の説が受け入れられることはなかった。
「イカサマ」「ペテン師」。
これが私に与えられた称号である。
私は東京帝国大学を追われ、学会からも追放された。
これ以後、アカデミズムにおいて、超常能力の研究はタブーとなっていく。
それでも、私の信念が揺らぐことはない。
この世にはびこる超常能力は事実であり、超人たちもまた存在する。
私自らが事実を証明するべく京都の高野山で修行を始めた。
物理学的検証という方法論では、
完璧なエビデンスがないとすべてが反論の材料となってしまう。
私が求めるところはそれではない。
滝行などと同時に古来より日本に伝わる『禅』の研究を始めた。
大正10年には、「福来心理学研究所」を設立。
一方、貞子は地元岡山で『心霊治療』なるものを始めた。
周囲から熱心な支持が得られ、希望があれば海を渡って治療しているという。
私は、かねてよりの思いを胸に、再び貞子と会う決意をした。
<シーン7/大正15年〜高野山の滝>
■SE/滝の音
『文字の念写でも、言葉でもよい。
ある女性に伝えてほしいことがある』
高野山にある滝の前。
白装束の貞子と私は坐禅を組みながら向き合った。
貞子は無言でうなづく。
『返答などなくてもよい。ただ伝えてほしい。
亡き妻タツへ。
20年前のあの日に戻って伝える。
すまなかった。
お前の言葉を信じていれば、今でもきっとそばにいてくれただろうに。
受け取ってほしい。私の思いを。
たった一文字をの心を』
それは『謝』。
感謝の『謝』。謝辞の『謝』である。
貞子は再びうなづいたあと目を瞑る。
私の膝下に置かれた半紙に描かれたのは『謝』ではなかった。
半紙からはみ出るほどに大きな『愛』という文字。
私の頬を伝って落ちる涙で、半紙の文字が滲む。
それはまるでむせび泣く私の心のようだった。
<シーン7/最後に>
この物語のなかで、透視や念写についてはすべて事実に基づいています。
世間から迫害された福来友吉博士は、以後注目を浴びることはなく、
昭和27年にその生涯を閉じました。
それでも、福来友吉の博士論文「催眠術の心理学的研究」は日本における催眠の学術的研究において嚆矢(こうし)となっているのです。
『千里眼』は、明治・大正時代に活躍しながらも、その研究ゆえに学会を追われた心理学者・福来友吉博士の生涯を描いた作品です。
彼が追い求めたものは、人知を超えた力――透視や念写という超常現象の実証でした。
千里眼の能力を持つとされた御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子との実験を通じて、科学と神秘の狭間で揺れ動いた彼の人生。
そして、その裏には決して消えることのない「ある想い」がありました。
本作は、Podcast番組「Hit’s Me Up!」の公式サイトをはじめ、Spotify、Amazon、Appleなどの各種Podcastプラットフォームでも配信中です。
音声で体験することで、より鮮やかに当時の時代背景や福来博士の心情に触れることができるでしょう。
科学か、幻想か。
果たして彼が最後に見た“真実”とは――?(CV:桑木栄美里)
【ストーリー】
<『千里眼』>
【資料/国立国会図書館「第13回/千里眼事件とその時代」】
https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/13/1.html
<シーン1/明治39年(1906)〜福来友吉邸>
■SE/朝の雑踏
『占いだって?』
『気持ちはわかるけどね』
『そういう非科学的な理由で学会を休むことなどできないよ』
明治39年の春。
いつになく、思い詰めた表情で妻が私に進言した。
その日午後から東京で予定されている心理学会。
そこに行くのをどうしてもやめてほしいと言う。
占い師から今日は外出しないよう強く言われたそうだ。
普段ならそのくらいやぶさかではないのだが、今日は特別な日。
私の著書『催眠術の心理学的研究』に基づいた発表をせねばならない。
私の名前は福来友吉。
東京帝国大学で研究を続ける心理学者である。
妻のタツとは明治女学校時代からの長い付き合いだ。
昔から口の立つ婦女子だが、たかが占いごときでここまで食い下がるとは。
私もつい強い口調で答えてしまった。
諍いのあと、いつものように2人で高山駅へ。
車の中でタツは目線を一切合わさず、一言も口をきかなかった。
汽車に乗り冷静になって思う。
帰ったら、素直に謝らねば。
さすれば、きっといつものカラっとした調子で迎えてくれるだろう。
しかし、謝罪は叶わなかった。
駅からの帰り道。
妻は、運悪く車にはねられ、帰らぬ人となってしまったのだ。
訃報が届いたのは、東京帝国大学での発表が終わったとき。
私にとっては、悔やんでも悔やみきれない悲劇であった。
<シーン2/明治43年〜東京帝国大学心理学実験室>
■SE/実験中の音
『し、信じられない!こんなことがあるものか』
東京帝国大学の心理学実験室。
目の前で起こっている出来事に私の脳が追いつけない。
『千里眼』。
密閉された箱の中にある名刺を、一人の女性が次々と読み上げる。
京都帝国大学医学部の博士とともにおこなったとある実験。
それは、透視能力という、人智を超えた力を確かめる実験だった。
女性の名は御船千鶴子(みふね ちずこ)。
熊本の主婦である。
千鶴子は義理の兄から催眠術で、
『透視ができるようになる』と暗示をかけられたそうだ。
実は、私もかねてから注目していたのが、催眠心理学。
催眠状態のとき、ヒトはしばしば平常時と比べて知覚が鋭敏となる。
千鶴子の千里眼は、梅の幹の中にいる虫を見つけたり、
海で無くした指輪の場所を干潮時にピタリと言い当てた。
亡き妻のこともあり、私は超常現象というものを
心理学の視点から解き明かしたいと考えている。
まさに、我が意を得たり。
私は、催眠心理学の研究にのめり込んでいく。
ハレー彗星の出現が人々の心を不安にさせていた明治43年のことだった。
実験の結果を新聞社に発表すると、世は『千里眼ブーム』となっていく。
同じような能力を持つ者たちが次々と現れた。
<シーン3/明治43年〜香川県丸亀市>
■SE/浜辺の音
香川県丸亀市の夫人、長尾郁子は予知能力を持つ女性。
新聞で千鶴子のことを知り、自分もやってみたらできたという。
私はさっそく郁子と会うために、丸亀へ赴いた。
郁子は思っていたよりも小柄で普通の主婦。
だが持っていたのは透視能力だけではなかった。
現像していない写真の乾板(かんぱん)の上に文字を感光させるのだ。
私はこれを『念写』と名付けた。
念じた文字を現像する写真に写し出す。
無から有を生み出すこと。
公開実験は続けられ、念写もまた、世間に発表された。
世の中に透視、念写といった超常能力ブームが蔓延していく。
明治43年の夏であった。
ところが、いつの時代でも批判や否定論者は必ず現れる。
我々の実験に疑問を抱いたのは一部の理論物理学者や懐疑派の記者たち。
フィルムや透視箱をインチキと決めつけ反論運動が始まった。
世の中というものは恐ろしい。
超常現象に懐疑的な人々は、非難の嵐で一斉に攻撃してくる。
公開実験を行なっても、不的中なら非難され、的中なら詐術(さじゅつ)を疑われた。
偽者呼ばわりされた千鶴子は自ら命を断ち、
郁子もまた失意のうちに病死。
心が折れそうになっていく。
<シーン6/大正2年〜東京帝国大学心理学実験室>
■SE/研究室の音
逆風が吹き荒れる大正2年。
私は3人目の超能力者と出会う。
高橋貞子。
心理学的にも極めて興味深いのは、その性格。
他人に対しては不愛想である一方で、困っている人には手を差し伸べずにはいられない。
同情心の深い貞子が私の3人目の被験者になった。
目の前で、手にした火箸が動いていく。
それは火鉢の中に「清(せい)」-『清い』という文字を描いた。
透視実験でも、貞子はことごとく的中させた。
この結果を受けて翌年。
大正3年9月に私は一冊の研究書を刊行した。
”透視と念写”
『透視は事實である。念寫も亦事實である』。
数々の実験によって得てきた確信を文字にしたためたのである。
残念ながら結果は予想通り。
世の中に吹き荒れる逆風の中で私の説が受け入れられることはなかった。
「イカサマ」「ペテン師」。
これが私に与えられた称号である。
私は東京帝国大学を追われ、学会からも追放された。
これ以後、アカデミズムにおいて、超常能力の研究はタブーとなっていく。
それでも、私の信念が揺らぐことはない。
この世にはびこる超常能力は事実であり、超人たちもまた存在する。
私自らが事実を証明するべく京都の高野山で修行を始めた。
物理学的検証という方法論では、
完璧なエビデンスがないとすべてが反論の材料となってしまう。
私が求めるところはそれではない。
滝行などと同時に古来より日本に伝わる『禅』の研究を始めた。
大正10年には、「福来心理学研究所」を設立。
一方、貞子は地元岡山で『心霊治療』なるものを始めた。
周囲から熱心な支持が得られ、希望があれば海を渡って治療しているという。
私は、かねてよりの思いを胸に、再び貞子と会う決意をした。
<シーン7/大正15年〜高野山の滝>
■SE/滝の音
『文字の念写でも、言葉でもよい。
ある女性に伝えてほしいことがある』
高野山にある滝の前。
白装束の貞子と私は坐禅を組みながら向き合った。
貞子は無言でうなづく。
『返答などなくてもよい。ただ伝えてほしい。
亡き妻タツへ。
20年前のあの日に戻って伝える。
すまなかった。
お前の言葉を信じていれば、今でもきっとそばにいてくれただろうに。
受け取ってほしい。私の思いを。
たった一文字をの心を』
それは『謝』。
感謝の『謝』。謝辞の『謝』である。
貞子は再びうなづいたあと目を瞑る。
私の膝下に置かれた半紙に描かれたのは『謝』ではなかった。
半紙からはみ出るほどに大きな『愛』という文字。
私の頬を伝って落ちる涙で、半紙の文字が滲む。
それはまるでむせび泣く私の心のようだった。
<シーン7/最後に>
この物語のなかで、透視や念写についてはすべて事実に基づいています。
世間から迫害された福来友吉博士は、以後注目を浴びることはなく、
昭和27年にその生涯を閉じました。
それでも、福来友吉の博士論文「催眠術の心理学的研究」は日本における催眠の学術的研究において嚆矢(こうし)となっているのです。