慶長五年十月、筑後国においての決戦。
立花宗茂 VS 鍋島直茂
『最新研究 江上八院の戦い』
中西豪・白峰旬 共著
日本史史料研究会 発行(2019.7月末予定)
遂に発行されます!
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推薦文
佐賀戦国研究会 代表 深川 直也
佐賀戦国研究会は一般市民による戦国史研究会で平成二十四年(二〇一二)十月に発足し、現在に至るまで七年間、遠近から講師を招き、固定の会員制ではなく自由参加型の勉強会や歴史講演会・シンポジウムを開催しています。 先日六月二十三日には、北九州市小倉北区・KOKURAホールにて、『第二回 関ヶ原の戦いを再検討する -高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像-』と題したシンポジウムを催行いたしました。
遡ること、平成二十六年(二〇一四)八月二十四日、大阪市主催の「大坂の陣四〇〇年天下一祭」の参加事業でもあった第四回「救世主・鍋島直茂(統一政権下のサバイバル)」と題する歴史講演会の開催に当たり、配布資料作成の必要もあって、私は龍造寺鍋島家の関ヶ原合戦当時の動向について調べておりました。江上八院合戦の一般的認知について、強い疑問を抱いたのはその時です。
きっかけとなった本は、佐賀県立図書館で見つけた『八院合戦の結末と水田会見(黒田如水・加藤清正)の由来』〈筑後市教育委員会・筑後郷土史研究会、昭和五十二年(一九七七)十二月発行〉です。合戦経緯から結末、その後江戸時代を通して語り継がれた亡霊話まで、龍造寺鍋島側・立花側両方の編纂史料を良くまとめてありますので、機会があれば是非読んで頂きたいのですが、 この一冊に出会うまで、私は全くもって、江上八院合戦について無知でした。
古戦場跡にも数回足を運んでみましたが、現地凡そ二キロメートル四方の中に古塚や供養塔が点在しており、それらは実は今も地元の方々によって大切に手入れされている事を知りました。四百十九年前の熾烈な干戈(かんか)の記憶と共に。
江上八院(えがみはちいん)合戦を、皆様はご存知でしょうか?
慶長五年(一六〇〇)十月二十日、福岡県久留米市城島町の江上地区から、大川市の中八院、三潴(みずま)郡大木町横溝の一帯で繰り広げられたこの激戦は、一日で決した局地戦のためか、そもそも佐賀県内の市町村史ですら、戦闘が有ったのか無かったのか良く分からない概説に終始しています。
合戦の名称もいくつか有り、筑後側の史料では江上合戦、八院合戦とも記され、佐賀側の史料では、柳川御陣、柳川合戦と称されます。
また一般的な関ケ原合戦関連の概説書や雑誌上でも、黒田如水と大友義統(吉統)が戦った石垣原合戦は「九州における関ヶ原合戦」として紹介される中、この江上八院合戦については、取り上げられないか、単なる小競り合いとして、または合戦というより加藤清正と立花宗茂の友情物語として、ごく短い文章で記述されているのみです。
今回の白峰旬先生と中西豪先生の考証によって、初めて詳細をお知りになる歴史ファンも多いと思いますが、実は世にも凄惨な、白兵戦でした。
しかも関ケ原本戦が終結し天下の趨勢(すうせい)が決した後での、龍造寺鍋島氏・立花氏の対戦であり、『直茂公譜考補十』によると最終的には、龍造寺鍋島氏に討ち取られた立花兵の首が六百余、戦勝の証として塩漬けにされ、上方へ送られています。この数字が小競り合いと言えるものでしょうか。
中八院の北東の隅に祀られている「三太夫地蔵」、即ち立花三太夫の戦没比定地一帯は、当時の名残を感じさせる地形で、今も水堀が入り組んでいます。中西豪先生と先年この辺りを踏査した際、中西先生がぼそっと「我、天啓を得たり」と呟かれたのを、今も覚えています。
ぜひ新著『最新研究 江上八院の戦い』をお読み頂き、WEBの地図上で、 中八院の地勢をご覧頂くと同時に、佐賀城、久留米城、城島城、酒見城、蒲池(かまち)城、柳川城の位置関係、そして督戦官となった黒田如水が布陣した筑後市水田、加藤清正の布陣したみやま市瀬高町、などの位置などを、俯瞰(ふかん)的に把握して頂ければ、同書への理解が深まる事と思います。
さらに、江上八院の戦いの存在は、日本史上ではトリビアルな事かもしれませんが、実は非常に奥が深いのです。前段階では私戦が復活した九州で、黒田如水、加藤清正、鍋島直茂、この三大名の思惑が書状上、私領拡大または御家存続を懸け、複雑に交錯しています。これをマクロの視点として、ミクロでいえば、江上八院合戦に際しての、龍造寺鍋島家と立花家、それぞれの家中に見える、動揺、対立、統制、及び戦闘経緯と結果から見いだされる沢山のファクターこそ、その後・江戸時代の両家の有り様に直結するものだと思います。
ともかくこの合戦の歴史が、ようやく史実として、まとまった一冊の研究書として、世に出る時期が来たのでしょう。当会としても感無量です。
ぜひとも全国の多くの研究者や歴史ファンに読まれることを願います。
※誰に頼まれた訳でもなく、勝手に推薦文を書かせて頂きましたが、もし失礼が有りましたら、大変申し訳ありません。宜しくお願い致します。
令和元年六月二十五日 記
(踏査時の写真から)