2023年 12月 3日 待降節第1主日
説教題:当たり前が覆されるという希望
聖書:ルツ記4:13−22、マタイによる福音書1:1−6、ガラテヤの信徒への手紙4:6−7、詩編100
説教者:稲葉基嗣
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【説教要旨】
故郷ベツレヘムに帰ってきた時、町の女性たちから声をかけられたナオミは、ナオミ(「甘い」「喜び」という意味)と呼ばれることを拒絶しました。ルツ記がその物語を終えるとき、女性たちは再びナオミに声をかけます。彼女たちはナオミの身に起こったことを思い起こし、神をたたえています。偶然の積み重ねとも思える出来事の背後に、神が確かにそこにいて、神がナオミを支えたことをベツレヘムの女性たちは喜びました。もう、この女性たちの言葉を否定し、拒絶する必要などありません。自分ではもうどうしようも出来ないほどに困難で、ナオミが完全に諦めていた状況が神によって覆され、未来が目の前に拓けたのですから。
未来が拓けたのはナオミだけではなく、ルツも同じです。ナオミにとって、7人の息子たちに勝る義理の娘であると、ルツは女性たちから最大級の褒め言葉を送られています。家族の代表者は男性で、跡継ぎである息子が最も大切にされた社会の中で、外国人女性であり、部外者でもあるルツが重要だなんて、あり得ないことでした。でも、そんな文化的常識を越えて、当たり前が覆されて、ルツの存在はベツレヘムの町で歓迎され、喜ばれています。ナオミにとっても、ルツにとっても、そして、ベツレヘムの町の人びとにとっても、当たり前であったことが覆されて、物語が終わっています。
ルツ記の物語では、神の働きはほとんど見えません。けれども、その物語を挟み込み、包み込む形で(1:6と4:13)、ルツ記は、神が物語のその背後で働き、当たり前を覆したことを伝えています。
わたしたちが当たり前だと諦めることを神が覆されることは、ルツ記の物語の中で留まることではありません。ルツ記は系図で終わり、物語は未来へと続いています。この系図は、マタイによる福音書の冒頭に記されている系図と結びついています。男性の名前を中心に記して系図を作成するという文化の中で、このように女性の名前が出てくることは何かを強調したい証拠です。イスラエルの社会にとって、外国人であり、のけ者であり、輪の外にいるルツを招き、受け入れることを伝えるかのように、イエス・キリストの系図の中にルツの名前が記されています。それは、社会で当たり前と認識されていることをイエスさまが覆すという希望を伝えているかのようです。誰かの当たり前は、その当たり前に押しつぶされている誰かの不幸です。「そんなの当たり前だ」というつぶやきは、わたしたちの諦めの証しです。キリストの平和が訪れ、わたしたちの当たり前を打ち砕いてくださいますように。キリストの平和が訪れ、わたしたちの当たり前を覆してくださいますように。