2025年11月9日 三位一体後第21主日
説教題:どうやって主イエスの行いを見つめることができるの?
聖書: ヨハネによる福音書 10:19–30、イザヤ書 35:1–10、詩編 95、エフェソの信徒への手紙 1:20–23
説教者:稲葉基嗣
-----
ハヌカの時期に、イエスさまは突然、ユダヤの宗教指導者たちに取り囲まれ、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)と伝えられました。メシアとは、ユダヤ人たちが待ち望み続けた救い主のことです。賛否両論な行動を起こすイエスさまの姿に、人々は困惑しました。イエスさま自身、自分が何者であるのかを明言しません。だから、彼らはイエスさまに直接尋ねることにしたのでしょう。イエスさまは「私は言ったが、あなたがたは信じない」と言います(25節)。なぜイエスさまは自分がメシアであると明言するのを避けたのでしょうか。きっと、わかりやすさは時に、誤解を生むからでしょう。イエスさまが「自分はメシアだ」と言うことは、まさにそんな単純化による誤解を生み出す可能性が大いにありました。彼らが求めるメシアは、力によってユダヤ人を他の民族による支配から解放する、指導者や革命家のような人物でした。それは、イエスさまがこれまで人々に伝えてきた、自分の姿とは違ったものでした。イエスさまはこの時、メシアであるかどうかを答える代わりに、「私が父の名によって行う業が、私について証しをしている」(25節)と言って、イエスさまの行動を見つめるようにと促しました。出会った一人ひとりと向き合い、彼らに働きかけたイエスさまのその姿は、世界全体に手を伸ばし、そこに生きるすべての命を慈しみ、傷ついたところを回復させ、豊かな命をもたらしたいと願う、神の愛や憐れみを映し出すものでした。イエスさまの行動は、天の国をこの世界にもたらすものでした。けれども、現代に生きる私たちの目にはイエスさまの姿は見えません。私たちはどのようにして、イエスさまの行いを見つめることができるのでしょうか。不思議なことに、私たちはイエスさまと出会う経験をします。何よりも、私たちがイエスさまの行いをこの目で見つめるのは、この場にいる人たちとの出会いを通してだと思います。私たちと共にいることを通して、イエスさまは私たちと一緒に働いてくださいます。その意味で、私たちは教会に集う時、イエスさまが共に何かをなそうとしている、一人ひとりの姿を見つめることになります。目には見えない神の働きが、共に生きる人々を通して明らかになります。きっとイエスさまの働きは、私たちがお互いに助け合う時、平和を模索する時、誰かを思って祈る時などを通して明らかになっていくのでしょう。