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2025年12月7日 待降節第2主日
説教題:広い場所へと導くために
聖書: マタイによる福音書 1:1-6a、ヨシュア記 2:1-24、詩編 4、フィリピの信徒への手紙 2:6–8
説教者:稲葉基嗣
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イスラエルの人々にとっては、ラハブは英雄のような存在です。ただ、エリコの人々にとってはどうでしょうか。彼女は自分の命が助かるために、エリコの町を引き渡した裏切り者だといえます。ラハブはなぜエリコの町を裏切ったのでしょうか。ヨシュア記の物語は、ラハブを誰の保護の下にもない遊女として紹介しています。彼女は、社会の当たり前から外れて、社会の片隅で生きていました。彼女の家は城壁の中にあったように、彼女は社会の片隅で生きていました。皮肉なことに、ラハブの名前はヘブライ語で、「広い」という意味です。自分の名前とは真逆の環境で、彼女は窮屈さを感じながら、生活をしていました。このような自分の境遇に望みを見いだせないため、彼女はエリコの町を裏切る道を選んだのでしょう。そんなラハブがエリコの町の中で経験していた息苦しさや窮屈さは、形が違えど、私たちが経験するものともいえます。私たちはきょうは礼拝のはじめに、詩編4篇を声を合わせて読みました。詩人は、「あなたは私を苦しみから解き放ってくださいました」と祈っています。直訳すると、「狭いとき、あなたは私に広いスペースを与えてくださった」。私たちを窮屈にする、あらゆる苦しみ、生きにくさから解放され、私たちを取り囲む世界が広々としたものとなる。それは、この詩編を受け止め、祈ってきた、あらゆる時代の人々の祈りです。広い場所へ行くことを願って、狭い場所を抜け出したラハブの物語は、そんな私たちの叫びを思い起こさせる物語です。だからこそ、マタイ福音書の系図にラハブの名が記されているのでしょう。窮屈さを感じているあなたの叫びを神は確かに聞いておられる。だから、神はイエスさまを私たちのもとに与えてくださったと、系図の中に入れられたラハブの名前は、私たちに伝えているかのようです。ただ、神はイエスさまを通して、すぐさま窮屈さや息苦しさを感じないような、広い場所へと私たちを移すことはしませんでした。神が選んだのは、私たちが息苦しさを感じる場所へとイエスさまを送ることでした。窮屈さを私たちと一緒に味わい、一緒に広い場所を目指して歩み続けるために、イエスさまは来てくださいました。それは、私たちの狭き所を広い所へと変えていくためです。愛の欠けた所、憐れみのない所、命が蔑ろにされる所、争いのある所、私たちが窮屈さや息苦しさを感じる、あらゆる所に、どうか希望の源であるキリストがきょう、訪れてくださいますように。
By 小山ナザレン教会2025年12月7日 待降節第2主日
説教題:広い場所へと導くために
聖書: マタイによる福音書 1:1-6a、ヨシュア記 2:1-24、詩編 4、フィリピの信徒への手紙 2:6–8
説教者:稲葉基嗣
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イスラエルの人々にとっては、ラハブは英雄のような存在です。ただ、エリコの人々にとってはどうでしょうか。彼女は自分の命が助かるために、エリコの町を引き渡した裏切り者だといえます。ラハブはなぜエリコの町を裏切ったのでしょうか。ヨシュア記の物語は、ラハブを誰の保護の下にもない遊女として紹介しています。彼女は、社会の当たり前から外れて、社会の片隅で生きていました。彼女の家は城壁の中にあったように、彼女は社会の片隅で生きていました。皮肉なことに、ラハブの名前はヘブライ語で、「広い」という意味です。自分の名前とは真逆の環境で、彼女は窮屈さを感じながら、生活をしていました。このような自分の境遇に望みを見いだせないため、彼女はエリコの町を裏切る道を選んだのでしょう。そんなラハブがエリコの町の中で経験していた息苦しさや窮屈さは、形が違えど、私たちが経験するものともいえます。私たちはきょうは礼拝のはじめに、詩編4篇を声を合わせて読みました。詩人は、「あなたは私を苦しみから解き放ってくださいました」と祈っています。直訳すると、「狭いとき、あなたは私に広いスペースを与えてくださった」。私たちを窮屈にする、あらゆる苦しみ、生きにくさから解放され、私たちを取り囲む世界が広々としたものとなる。それは、この詩編を受け止め、祈ってきた、あらゆる時代の人々の祈りです。広い場所へ行くことを願って、狭い場所を抜け出したラハブの物語は、そんな私たちの叫びを思い起こさせる物語です。だからこそ、マタイ福音書の系図にラハブの名が記されているのでしょう。窮屈さを感じているあなたの叫びを神は確かに聞いておられる。だから、神はイエスさまを私たちのもとに与えてくださったと、系図の中に入れられたラハブの名前は、私たちに伝えているかのようです。ただ、神はイエスさまを通して、すぐさま窮屈さや息苦しさを感じないような、広い場所へと私たちを移すことはしませんでした。神が選んだのは、私たちが息苦しさを感じる場所へとイエスさまを送ることでした。窮屈さを私たちと一緒に味わい、一緒に広い場所を目指して歩み続けるために、イエスさまは来てくださいました。それは、私たちの狭き所を広い所へと変えていくためです。愛の欠けた所、憐れみのない所、命が蔑ろにされる所、争いのある所、私たちが窮屈さや息苦しさを感じる、あらゆる所に、どうか希望の源であるキリストがきょう、訪れてくださいますように。