2026年4月26日 復活節第4主日
説教題:教会はサイレント・マジョリティの群れではなく、耳を傾け合う交わり
聖書: ヨハネによる福音書 12:37–43、イザヤ書 6:8–10、詩編 142、ローマの信徒への手紙 8:26–27
説教者:稲葉基嗣
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イエスさまと出会った人々は、イエスさまのことを神から遣わされた存在として、受け止めることができませんでした(37節)。ユダヤの宗教指導者たちは敵意をもって反応していました。ですから、イエスさまの行ったしるしを見たり、イエスさまの言葉を聞いた結果、イエスさまを救い主と受け止めた人たちにとって、イエスさまとの結びつきをはっきりと口にすることは恐ろしいことへと変わっていきました。ユダヤの宗教指導者たちから反感を買うことを恐れたためです。そうやって少しずつ、イエスさまのことを公に支持する声が減っていきました。そして、徐々にイエスさまを妬み、憎しみ、イエスさまに対する敵意や殺意を抱いた、ユダヤの宗教指導者たちの声が目立つようになってしまったのです。このように、イエスさまの行った数々のしるしに対する、人々の反応とその後の沈黙について思い巡らしてみると、他人事ではないと思わされてきます。一部の人たちの大きな声ばかり目立ち、多くの人たちは声を積極的には発しない。まさに、現代社会でも見られる出来事です。現代社会において、サイレント・マジョリティの声は、圧倒的に見えてきません。ソーシャルメディアを開くと、大きな声ばかりが目立ち、その声は増強され、あたかも沢山の人が同じように考えているように見えてしまうからです。ですから、私たちはもっともっと語り合わなければいけないのでしょう。わかりあえないと思っても、もっともっと、実際に顔と顔を合わせて出会い、異なる意見に耳を傾け、語り合うことこそ私たちの生きる社会に必要なことです。僅かな人数の大きな声ばかりが響き渡り、多くの人の声が聞こえない。そんな現代社会に生きる私たちにとって、大きな希望は、神こそが私たちひとりひとりに耳を傾けてくださることです。そして、イエスさまこそが、私たち人間のそばに来て、私たちと共に生き、私たちと共に語り合った方でした。主イエスに愛されている私たちにとって、主イエスが向き合ってくださったように、一人ひとりと誠実に向き合うことは、とても自然なことです。私たちが招かれている教会という共同体は、まさにそのような交わりです。教会は、声を出せないサイレント・マジョリティを作り出す場所ではありません。むしろ、どんな言葉でもいいから、語り合える場所です。主イエスにあって結ばれ、お互いの存在を喜び合いながら、お互いの声に耳を傾け合える場所だからです。