2025年4月13日 しゅろの主日
説教題:傷ついた主イエスを見つめることにどのような意味があるのか?
聖書: ヨハネによる福音書 19:1–16、ゼカリヤ書 9:9–10、詩編 24、ヘブライ人への手紙 4:14–16
説教者:稲葉基嗣
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ろばに乗ったイエスさまがエルサレムに入場したとき、エルサレムの人びとはナツメヤシの枝を手に持って、「ホサナ(どうか救ってください)。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に」(11:13)と叫び続けて、イエスさまのことを歓迎しました。ナツメヤシは、ユダヤの人びとにとって、繁栄や祝福を象徴する植物でした。待ち望んでいた王がエルサレムにやって来る。それによって、自分たちは神によって祝福され、繁栄することになる。そんな期待に胸を膨らませて、彼らはイエスさまのことを歓迎したのでしょう。けれども、イエスさまが逮捕され、拷問を受け、裁判にかけられたとき、イエスさまの死を望むユダヤの宗教指導者たちの声に同調して、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けました(19:6, 15)。この時、イエスさまが味わったものは人びとからの拒絶だけではありません。十字架刑によってイエスさまは、激痛と辱めを経験しました。ピラトはそんなイエスさまを指して、その場に集う人たちに向かって、「見よ、この人だ」(5節)と言います。それは、ユダヤ人たちの王を自称していると訴えられたイエスさまや、イエスさまのことを訴えたユダヤ人たちを小馬鹿にしたような行動でした。ピラトにとって、彼のこの発言は、自分のことを利用してイエスさまを何としてでも十字架にかけようとする民衆に、ささやかな抵抗を示すような言葉でした。でも、そんなピラトの意図したことを越えて、ピラトの言葉は、イエスさまによって表される、信仰的な現実を指し示す言葉となりました。まことの王として、救い主メシアとして、私たちのもとにやって来たイエスさまは、決して、暴力や大きな権力ですべての問題を解決することを望みませんでした。寧ろ、生身のその身体で傷つきながら、心をすり減らしながら、イエスさまは出会う人たちに神の愛や憐れみを示しました。その結果として、イエスさまは宗教的な指導者たちから反感を買い、逮捕され、命を落とすことになります。ヨハネは、そんなイエスさまの姿を見つめるようにと、私たちに促します。この人を見てください。傷ついて、血を流し、心をすり減らし、私たちの罪のために、死に向かって歩んでいったイエス・キリストを見てください。ここに、私たちを決して諦めない、神の愛が溢れています。