
Sign up to save your podcasts
Or


2025年3月30日 四旬節第4主日
説教題:小さな声に耳を傾け続ける
聖書: ヨハネによる福音書 9:24–34、サムエル記 上 16:1–13、詩編 32、コリントの信徒への手紙 一 1:26–31
説教者:稲葉基嗣
-----
当時のユダヤの宗教的な指導者たちは「イエスというあの男は罪人なんだ。そうだろ?さぁ、正直に言いなさい」といったような口ぶりで、目が見えるようになった人がイエスさまのことを罪人と証言するように促しました。けれども、目が見えるようになった人は、彼らの言葉に同意しません。彼は、自分が経験した確かな事実を伝えると、彼らから尋ねられます。「どうやってあの人は、あなたの目を開けたのですか」(26節)。実は、彼らからこのように尋ねられたのは、これが初めてではありませんでした。この福音書の中で記録されている限りでは、これが3度目の問いかけです。ですから、彼は皮肉交じりに、何度も同じ質問をしてきた彼らに抗議します。「もうお話したのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」(27節)この抗議の声は、ユダヤの宗教指導者たちの問題が明らかになった瞬間でした。それは、聞かない、耳を傾けないという問題です。彼らが望んだ、イエスさまを罪人だと証言するような言葉ではなかったから、目が見えるようになったこの人の言葉は、彼らには届きませんでした。「お前は全く罪の中から生まれたのに、我々に教えようというのか」(34節)と最終的に彼は伝えられ、追放されます。ユダヤの宗教指導者たちは自分たち自身の差別意識や偏見を明らかにし、この人の言葉を真剣に聞こうとしていない自分たちの姿勢を明らかにしています。その上、彼らは目が見えるようになった人から教えられることは望んでいません。寧ろこの物語においてこの人は、ユダヤの宗教指導者たちにとって、イエスさまについての不利な証言を引き出すための道具のように扱われています。このような姿勢は、何もユダヤの宗教指導者たち特有の問題ではありません。偏見に基づいたレッテル貼りや、他人を道具のように扱うことは、この世界の至る所において見受けられるものではないでしょうか。だからこそ、彼らの姿勢は、私たち自身やこの世界の抱える問題です。そんな私たちやこの世界のために、主イエスは私たちのもとに来てくださいました。イエスさまは、どれだけ拒絶されようとも、人びとと向き合い続ける方でした。ユダヤ社会の小さな、小さな声に耳を傾け続けました。そんなイエスさまの姿を見て、イエスさまのように生きたい。社会的な立場や、血縁や、貧富の差など関係なく、お互いに、手を取り合いたい。小さな声に耳を傾け続けて、誰にとっても、安心して集える場所であり続けたい。そんな思いを、夢を持ち続けているのが、教会という信仰共同体です。
By 小山ナザレン教会2025年3月30日 四旬節第4主日
説教題:小さな声に耳を傾け続ける
聖書: ヨハネによる福音書 9:24–34、サムエル記 上 16:1–13、詩編 32、コリントの信徒への手紙 一 1:26–31
説教者:稲葉基嗣
-----
当時のユダヤの宗教的な指導者たちは「イエスというあの男は罪人なんだ。そうだろ?さぁ、正直に言いなさい」といったような口ぶりで、目が見えるようになった人がイエスさまのことを罪人と証言するように促しました。けれども、目が見えるようになった人は、彼らの言葉に同意しません。彼は、自分が経験した確かな事実を伝えると、彼らから尋ねられます。「どうやってあの人は、あなたの目を開けたのですか」(26節)。実は、彼らからこのように尋ねられたのは、これが初めてではありませんでした。この福音書の中で記録されている限りでは、これが3度目の問いかけです。ですから、彼は皮肉交じりに、何度も同じ質問をしてきた彼らに抗議します。「もうお話したのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」(27節)この抗議の声は、ユダヤの宗教指導者たちの問題が明らかになった瞬間でした。それは、聞かない、耳を傾けないという問題です。彼らが望んだ、イエスさまを罪人だと証言するような言葉ではなかったから、目が見えるようになったこの人の言葉は、彼らには届きませんでした。「お前は全く罪の中から生まれたのに、我々に教えようというのか」(34節)と最終的に彼は伝えられ、追放されます。ユダヤの宗教指導者たちは自分たち自身の差別意識や偏見を明らかにし、この人の言葉を真剣に聞こうとしていない自分たちの姿勢を明らかにしています。その上、彼らは目が見えるようになった人から教えられることは望んでいません。寧ろこの物語においてこの人は、ユダヤの宗教指導者たちにとって、イエスさまについての不利な証言を引き出すための道具のように扱われています。このような姿勢は、何もユダヤの宗教指導者たち特有の問題ではありません。偏見に基づいたレッテル貼りや、他人を道具のように扱うことは、この世界の至る所において見受けられるものではないでしょうか。だからこそ、彼らの姿勢は、私たち自身やこの世界の抱える問題です。そんな私たちやこの世界のために、主イエスは私たちのもとに来てくださいました。イエスさまは、どれだけ拒絶されようとも、人びとと向き合い続ける方でした。ユダヤ社会の小さな、小さな声に耳を傾け続けました。そんなイエスさまの姿を見て、イエスさまのように生きたい。社会的な立場や、血縁や、貧富の差など関係なく、お互いに、手を取り合いたい。小さな声に耳を傾け続けて、誰にとっても、安心して集える場所であり続けたい。そんな思いを、夢を持ち続けているのが、教会という信仰共同体です。