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2025年3月23日 四旬節第3主日
説教題:神が望む共同体のあり方とは?
聖書: ヨハネによる福音書 9:13–23、出エジプト記 20:8–11、詩編 130、ヘブライ人への手紙 4:9–11
説教者:稲葉基嗣
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共同体というものを考える上で、現代に生きる私たちと古代の人びとの間にある大きな違いは、選択の自由がどれほどあったかです。私たちの前にはいくつかの選択肢があって、私たちはその中から選び取って、関わる共同体を決めますし、合わないと感じたら他のものを選ぶことも可能です。けれども、イエスさまが生きた時代の人たちにとって、彼らが関わるコミュニティは、選択の結果ではありません。自由に変更できない、自分たちの所属するコミュニティでの人間関係はとても大切なものでしたし、できるかぎり円滑に進めていかなければなりません。嫌になったら、じゃぁ、別のコミュニティに行こうといったものではないからです。イエスさまの生きた時代のユダヤ人たちにとって、「会堂」または「シナゴーグ」と呼ばれる場所は、とても重要なコミュニティでした。そこは単に、ユダヤ人たちが神を一緒に礼拝するためにあるだけの場所ではなく、同じ地域に住むユダヤ人との交流の場であり、結びつきの象徴でもありました。イエスさまが起こした奇跡によって目を見えるようにされた人の両親は、ファリサイ派の人たちのことを恐れていたと、ヨハネは記録しています。それは、もしもイエスという人が救い主メシアだというような発言をしたならば、会堂から追い出される可能性があったからです。会堂追放は、ユダヤ人たちの社会から仲間外れにされることも意味していました。そのような事態は、どうにかして避ける必要のあるものでした。だから、両親は、自分たちの息子が目に見えるようになったことについて、ファリサイ派の人たちから尋ねられても、はっきりと答えませんでした。本人に聞いてくださいと伝えるだけでした。けれども、今度は、彼らの息子が追放の危険に晒されることになってしまいました。恐れに支配されるとき、私たち人間の集まりであるコミュニティは、誰かを排除してしまう、そんな私たち人間が抱えている現実をヨハネ9章の物語は私たちに指摘しているかのようです。恐れに支配され、恐れに反応して形作られていたコミュニティの中にあって、イエスさまは目が見えない人に手を差し伸べました。それは、恐れに基づいて他者を排除することではなく、愛や憐れみに基づいて他者を受け止める行為でした。恐れではなく、誰もが安息を手にすることができるコミュニティを目指したから、イエスさまは目が見えないこの人に手を差し伸べたのでしょう。私たちは神が与える安息を完全に手にしているわけではありません。だから、すべての人にとっての安息の実現を祈り求め、信仰の旅を続けています。
By 小山ナザレン教会2025年3月23日 四旬節第3主日
説教題:神が望む共同体のあり方とは?
聖書: ヨハネによる福音書 9:13–23、出エジプト記 20:8–11、詩編 130、ヘブライ人への手紙 4:9–11
説教者:稲葉基嗣
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共同体というものを考える上で、現代に生きる私たちと古代の人びとの間にある大きな違いは、選択の自由がどれほどあったかです。私たちの前にはいくつかの選択肢があって、私たちはその中から選び取って、関わる共同体を決めますし、合わないと感じたら他のものを選ぶことも可能です。けれども、イエスさまが生きた時代の人たちにとって、彼らが関わるコミュニティは、選択の結果ではありません。自由に変更できない、自分たちの所属するコミュニティでの人間関係はとても大切なものでしたし、できるかぎり円滑に進めていかなければなりません。嫌になったら、じゃぁ、別のコミュニティに行こうといったものではないからです。イエスさまの生きた時代のユダヤ人たちにとって、「会堂」または「シナゴーグ」と呼ばれる場所は、とても重要なコミュニティでした。そこは単に、ユダヤ人たちが神を一緒に礼拝するためにあるだけの場所ではなく、同じ地域に住むユダヤ人との交流の場であり、結びつきの象徴でもありました。イエスさまが起こした奇跡によって目を見えるようにされた人の両親は、ファリサイ派の人たちのことを恐れていたと、ヨハネは記録しています。それは、もしもイエスという人が救い主メシアだというような発言をしたならば、会堂から追い出される可能性があったからです。会堂追放は、ユダヤ人たちの社会から仲間外れにされることも意味していました。そのような事態は、どうにかして避ける必要のあるものでした。だから、両親は、自分たちの息子が目に見えるようになったことについて、ファリサイ派の人たちから尋ねられても、はっきりと答えませんでした。本人に聞いてくださいと伝えるだけでした。けれども、今度は、彼らの息子が追放の危険に晒されることになってしまいました。恐れに支配されるとき、私たち人間の集まりであるコミュニティは、誰かを排除してしまう、そんな私たち人間が抱えている現実をヨハネ9章の物語は私たちに指摘しているかのようです。恐れに支配され、恐れに反応して形作られていたコミュニティの中にあって、イエスさまは目が見えない人に手を差し伸べました。それは、恐れに基づいて他者を排除することではなく、愛や憐れみに基づいて他者を受け止める行為でした。恐れではなく、誰もが安息を手にすることができるコミュニティを目指したから、イエスさまは目が見えないこの人に手を差し伸べたのでしょう。私たちは神が与える安息を完全に手にしているわけではありません。だから、すべての人にとっての安息の実現を祈り求め、信仰の旅を続けています。