小山ナザレン教会

神の国の予告編である教会(石田学) – ローマ 14:13–23


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2025年3月9日 四旬節第1主日

説教題:神の国の予告編である教会

聖書: ローマの信徒への手紙 14:13–23、イザヤ書 65:17–20、詩編 100、マルコによる福音書 10:32–34

説教者:石田学

 

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教会は、楽しみ、喜ぶことができる場所でなければなりません。神の国がそうであり、教会は神の国のしるしであり予告編だからです。でも、見たこともない「神の国」をどうやって知るのでしょうか。聖書には神の国がどのようなものかを物語る記述が多くあります。その一つイザヤ65:17−20は神の国を高らかに歌い上げています。  見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。  代々とこしえに楽しみ、喜べ。神の国が神によって創造される「新しい天と新しい地」だということは、神の国はこの世界での幸福や成功や繁栄ではないということです。しかし、わたしたちはこの世界で神の国と無関係でもありません。神の国はこの世界に対して断絶し閉ざされているわけではないからです。神がこの世界に、神の国のしるしを与え、もたらしてくださるからです。祝福の約束として、苦難の民を救い出すことで、預言者の幻をとおして。そして神のひとり子主イエスによって神の国を地にもたらすことによって。そうであれば、わたしたち神の民は、神の国がどのようなものかを知り、信じ、望み、楽しみにしながら、ふさわしく生きたいとねがうはずです。教会はそのような人々の集いであり、共に世を旅する仲間であり、多様な人々であっても、神の国の到来を待ち望むことにおいて一つですから。教会は神の国そのものではありませんが、神の国のしるし、予告編です。神の国そのものを味わえなくとも、その香りを楽しむことのできる所です。もし、教会が苦痛で、喜びがなく、楽しむことができないとしたら、教会は本来のあるべき姿と違ってしまっていることに原因があるでしょう。教会に集うわたしたちはただの・普通の人間にすぎません。この世界の常識や価値観に侵略され、批判し合い、裁き合ってしまいます。パウロはローマのキリスト者に神の国のしるしを生きなさいと告げるのです。むずかしい理屈や知識ではなく、キリストの愛と平和を生きることによって。パウロは「もう互いに裁き合わないようにしよう」と呼びかけます。その方法は、自分と違う考えや習慣の人を裁かず認め、受け入れることです。自分は自分らしく、他の人はその人らしく自由に生きることができる。誰もが、わたしは自由だ、自分らしくいて喜び合えるのだと実感することが、教会は神の国のしるしであり予告編であることの証です。でも、自分たちが快適だというだけの楽しみ・喜びであってはなりません。教会は、つまりわたしたちは、神の愛、憐れみ、正義を生き、神の国の平和を作ることを楽しみ喜ぶことでも、神の国のしるしだからです。

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