小山ナザレン教会

聞いて、見つけてくださる神(稲葉基嗣) – ヨハネ 9:35–41


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2025年4月6日 四旬節第5主日

説教題:聞いて、見つけてくださる神

聖書: ヨハネによる福音書 9:35–41、出エジプト記 3:7–10、詩編 34、コリントの信徒への手紙 一 1:18–25

説教者:稲葉基嗣

 

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生まれつき目が見えない人が登場するこの物語は、当時のユダヤ社会の常識を否定し、覆すかのような形で幕を閉じます。物語のはじめに、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰のせいか?」とイエスさまに尋ねた弟子たちの発言とは真逆のことをイエスさまはファリサイ派の人たちの前で伝えました。 「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」(41節)ファリサイ派の人たちは目が見えない人は罪人であり、イエスさまも罪人であるという偏見に基づきながら、この出来事に関わりました。だから、彼らは目が見えるようになった人やイエスさまのことを知ろうとも、この二人と真剣に向き合おうともしませんでした。だから、イエスさまを通して、目が見えない人に神が手を差し伸べた時、イエスさまの働きを神が行ったものとして見つめることができませんでした。彼らのこのような言動を問題視し、告発することは物語の主軸ではありません。この物語は目が見えるようにされた人とイエスさまにスポットを当てています。イエスさまは目が見えるようになった彼が会堂から追放されたと知った時、また再び、ユダヤ社会から彼が排除されようとしている時、彼のために動き出し、彼を探して見つけ出し、彼に手を伸ばしました。それは、まさに、イエスさまがどのような方なのかを私たちに示す出来事でした。旧約聖書の時代、エジプトでの重労働に苦しんでいた、イスラエルの民の叫び声に、神は心動かされ、彼らを救い出すために動き始めました。同じように、ユダヤの会堂から追い出されて、居場所を失い、途方に暮れていたであろう、目が見えるようになった彼のことを聞いた時、イエスさまはまさに憐れみに心が動かされ、彼を探し出したのだと思います。イエスさまを信じる人びとの交わりの中に彼を受け止めるために、イエスさまは彼を探し出したのです。そのようにして、私たちを神のもとに招き、そして、教会という交わりの中に招き続けてくださっているのが、私たちの救い主であるイエスさまの姿です。私たち教会は、私たちのことを見つけ出してくださるイエスさまとの出会いやイエスさまと共に生きることを心から喜び、その喜びを分かち合う交わりです。イエスさまが私たち一人ひとりと出会い、共にいてくださっているということは、イエスさまは私たち自身を通しても、私たちのそばにいる誰かを見つけ、出会おうとしているということです。

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