小山ナザレン教会

泥を塗りつけてください(稲葉基嗣) – ヨハネ 9:1–12


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2025年3月16日 四旬節第2主日

説教題:泥を塗りつけてください

聖書: ヨハネによる福音書 9:1–12、創世記 2:4–7、詩編 6、コリントの信徒への手紙 二 4:6–7

説教者:稲葉基嗣

 

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ヨハネによる福音書で「エゴー・エイミー」(「私です」という意味)というフレーズは、イエスさまの自己紹介で何度も使われています。この福音書においてただ一例(9節)を除いて、ご自分の存在を明らかにするイエスさまの発言のみにこのフレーズは使われています。ヨハネはなぜ、目が見えるようになった人のこの物語の中でのみ、「私です」という言葉をイエスさま以外の人が用いた様子を描いたのでしょうか。弟子たちは、目が見えない人本人か、その両親に大きな問題があったから、この人は目が見えない(2節)と、この人を偏見の目で見つめていました。近所の人たちも、「目が見えない」「物乞いをしている」ということだけで、この人のことを認識していました。目が見えないことによって、この人が何者であるのかが周囲の人びとの間で決定づけられてしまいました。イエスさまによって目を開かれた出来事は、目を開かれた人にとって、新しく生きる道が開かれることに繋がりました。イエスさまは目が見えない人の目に泥を塗りつけ、この人の目を開くことを通して、人びとが彼に抱く偏見や彼に押し付けてくるイメージから彼を解放しました。周囲の人びとやユダヤの文化が彼に押し付けてきた、罪人や汚れた人、物乞いといったその状態はイエスさまとの出会いを通して、彼から取り去られます。そして、彼は「私です」と言って、ありのままの自分自身の姿をさらしだしました。このとき、イエスさまが取ったその方法は、目に泥を塗りつけることでした。この行動は、創世記2章に記されている人間の創造を思い起こさせます。人は、土の塵から形作られ、神に命の息を吹きかけられて生きる者とされました。私たちが何者であるのかを決定づけるのは、他人からの評価でも、この社会や家族の声でも、私たち自身が積み上げてきた功績でもありません。神があなたを造り、あなたに命を与えた。神があなたを神の子とされた。これが、私たち一人ひとりを決定づけるものです。だからこそ、イエスさまはあのとき、目に見えない人の目に泥を塗りつけ、新しく生きる道を備えました。どうかきょうも、これからも、私たち自身が生きる限りこの身に引き受けてしまう、偏見や思い込み、私たち自身から自分らしさを奪っていく様々な出来事に、イエスさまが泥を塗りつけてくださいますように。何度も、何度でも、私たち自身が何者であるのかをイエスさまが思い起こさせてくださいますように。私たちは神に命の息を吹きかけられて生きる、神の子どもです。

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