2025年2月9日 公現後第5主日
説教題:命の光をもたらすために
聖書: ヨハネによる福音書 8:21–30、エゼキエル書 18:21–32、詩編 130、ローマの信徒への手紙 6:15–23
説教者:稲葉基嗣
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ユダヤの宗教指導者たちがイエスさまと対話した様子をヨハネは記録しています。この時の彼らの関心は、イエスさまが誰であるかでした。イエスさまが救い主メシアであるかどうかを見定めるために、彼らはイエスさまと対話を積み重ねました。「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」とイエスさまは3度も彼らに語っています(21, 24節)。かなり強烈な響きを持つ言葉だと思うのですが、中心的に取り扱われていません。イエスさまのこの言葉はあまり真剣に掘り下げたくはない言葉かもしれません。誰だって、自分の抱える問題とは、できれば向き合いたくないものですから。けれども、「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉は、私たちを取り囲んでいる現実をとてもよく言い表している言葉に思えます。罪と聖書が言うのは、私たちと神との関係が適切ではないことです。それは、私たちが神の思いを踏みにじり、神の愛や憐れみに生きるのではなく、自己中心と自己正当化の中で生きることです。また、私たちと共に生きる人たちや、この世界と私たちとの間の関係が傷つき、壊れた状態であることをいいます。私たちは嫌というほど、自分をはじめ、すべての人が抱える罪に直面しています。いじめ、差別、ハラスメント、社会制度の改悪、終わらない戦争、難民や移民として生きざるを得ない人たちの権利や尊厳の侵害、自然災害などは、私たち人間が抱える罪の目に見える結果です。まさにイエスさまが指摘したように、私たちは誰もが、自分たち人間の罪に巻き込まれ、傷つけられながら生き、そして罪の内に死んでいくかのようです。このような私たちの現実を真剣に受け止めているから、イエスさまは「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」と語ったのでしょう。けれども、それは私たちに自分たちの生きる現実を突きつけ、自分たちでは解決不可能な罪の現実に絶望させるためではありませんでした。イエスさまこそ、罪の内に死へと向かうこの世界とそこで生きる私たちに、命の光をもたらすために、神が私たちのもとに送ってくださった方です。それは、罪の赦しと新しい命に生きる希望の光です。イエスさまはその生涯をかけて、私たちに神の愛と憐れみの内に生きる道を示してくださいました。イエス・キリストは、私たちといつも共に生きることを選んでくださった神です。罪のうちにあって、命をすり減らし、この命をお互いに傷つけ合ってしまう私たちが命の道を歩んで行くことができるよう、常に私たちの旅に伴ってくださる方です。