小山ナザレン教会

神のもとで、私たちは何者なのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 8:37–47


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2025年2月23日 公現後第7主日

説教題:神のもとで、私たちは何者なのか?

聖書: ヨハネによる福音書 8:37–47、創世記 18:1–8、詩編 95、ヘブライ人への手紙 11:8–16

説教者:稲葉基嗣

 

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私は時々、何かものを書く時に自分のプロフィールを書くことを求められます。大抵の場合、生まれた年や出身地、これまでの経歴、趣味などを書いています。このような情報は、私が何者であるのかを伝えることができるものだと思います。イエスさまが生きた時代のユダヤの人びとにとって、父親の名前が重要でした。彼らの社会は、家長である父親を頂点とするコミュニティだったからです。自分が誰の子であるのかは、どのコミュニティに所属しているのかだけでなく、自分の民族的な出自を明らかにするものでした。ヨハネによる福音書が紹介する、ユダヤ人たちとイエスさまの論争の中で、アブラハムの子(子孫)という言葉が登場し、この言葉が問題となっています。ユダヤ人たちの民族的な背景が、アブラハムの子孫であることは、まったくその通りだとイエスさまは認めています。一方で、イエスさまは「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業を行っているはずだ」(39節)と言って、彼らの行動の方に目を向けました。民族的な面でのアブラハムとの結びつきではなく、信仰的な生き方として、アブラハムの子どもらしく生きているのかをイエスさまはここで問いかけました。イエスさまを殺し、自分たちにとって不都合な者を排除することを企む彼らは、アブラハムの信仰に倣うような行いをしていないと、イエスさまは訴えました。この時、イエスさまが心に浮かべたのは、突然訪ねてきた3人の旅人たちをアブラハムがもてなした場面です(創世記18章)。アブラハムの信仰的な生き方に倣おうとするならば、旅人を受け入れ、神が遣わしてくださった人たちを受け入れることでしょう。けれども、ユダヤの宗教指導者たちは、神が彼らのもとに遣わしたイエスさまを煙たがり、イエスさまへ殺意を抱き、排除を企てていました。そうすることによって、彼らは自分たちの生き方は、アブラハムの子とは呼べるものではないことを露わにしました。だから、イエスさまは彼らが、アブラハムの子として生きていない現実を強い言葉を用いて指摘したのでしょう(44節)。イエスさまの目的は、彼らが悪そのものだと断定することにはありません。アブラハムの子として歩み直してほしいと願い、強い言葉を語ったのでしょう。信仰において、私たちは天の御国を目指す旅人であるという点において、私たちもアブラハムと同じ旅人です。私たちが旅人であり続けることがきっと、この世界で助けを必要としている他の旅人たちを思う想像力を育み、彼らに手を差し伸べるきっかけや行動を生み出すことでしょう。アブラハムが旅人をもてなしたように。

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