小山ナザレン教会

自由への招き(稲葉基嗣) – ヨハネ 8:31–38


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2025年2月16日 公現後第6主日

説教題:自由への招き

聖書: ヨハネによる福音書 8:31–38、出エジプト記 1:8–14、詩編 146、ガラテヤの信徒への手紙 4:6–7

説教者:稲葉基嗣

 

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弟子とは、どのような存在なのでしょうか。弟子は技術や学問を身に着けるために、先生や師匠と一緒に過ごす人たちです。時には先生の行動を通して、また時には先生の言葉を通して学びます。弟子は自分の先生のように生きようとします。先生の言葉を自分の血肉とし、師匠の技術を身体に染み込ませ、自分自身の一部にしようとします。イエスさまの弟子であるためには、イエスさまの言葉に留まることが必要です。自分の先生であるイエスさまの語った言葉を何度も何度も思い起こして、その意味を考え続けて、そして行動に移していく。それがイエスさまにとっての弟子のあるべき姿のようです。イエスさまと直接会うことができた人たちだけでなく、現代に生きる私たちも、イエスさまに似た弟子となることを目指して歩み始めることができます。弟子として生きることは、決して、私たちの個性が否定されることではありません。むしろ、私たち一人ひとりの生き方を助け、更に豊かにするものです。たとえば、イエスさまが私たちに人を愛する方法を教えてくださっているから、自分が当たり前だと思う愛し方以外の方法があることを知ることができます。イエスさまと対話をしていた人びとは、イエスさまの弟子となることを通して自由となるという言葉に反発しました。彼らの言い分は、自分たちはアブラハムの子孫だから、誰かの奴隷になったことなどない、です。彼らが自分たちは自由であると主張するのは、政治的な理由ではなく、精神的な理由からでした。けれども、イエスさまは「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」(34節)と言います。誰もが等しく、常に、罪の支配の中にあるからです。誰かを愛そうと願っても、自分のことばかりを優先してしまいます。どれだけ平和的に生きようと願っても、暴力的な言葉や行動を引き起こしてしまうことがあります。それが私たちやこの世界の現実です。イエスさまは、私たちのそのような現実をよくわかっているから、私たちにイエスさまの弟子として生きるように招き続けています。イエスさまのこの招きは、私たちが罪の支配から自由になるためです。罪はもはや私たちを支配しません。イエスさまの弟子として歩む時、キリストの愛や憐れみこそが、私たちの存在全体を覆うからです。

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