小山ナザレン教会

どんなに闇が深くても(稲葉基嗣) – ヨハネ 8:12–20


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2025年2月2日 公現後第4主日

説教題:どんなに闇が深くても

聖書: ヨハネによる福音書 8:12–20、イザヤ書 42:5–7、詩編 36、エフェソの信徒への手紙 5:8–14

説教者:稲葉基嗣

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古代の人々にとって、太陽の存在は彼らの人生において頼りになるものでした。けれども、イエスさまは自分自身について語る際、太陽や太陽の光を比喩としては用いませんでした。イエスさまは自分自身が何者であるのかを伝えるのに、太陽が適切なモチーフだとは考えなかったのでしょう。太陽は一日の半分は隠れて、見えません。もしもイエスさまが太陽のような存在であると言うのならば、イエスさまはこの世界を暗闇が包む時、何の対抗手段を持っていないと伝えることになってしまうでしょう。それでは、イエスさまは一体どのような意味を込めて、「私は世の光である」と語ったのでしょうか。ヨハネによる福音書は、イエスさまのこの言葉を古代イスラエルの人びとが荒野を旅し、生活をしていたことを思い起こし、記念するお祭りである、仮庵祭の文脈の中に置いています。このお祭りの初日の終わり頃に、神殿の庭で、4つの金の燭台に火が灯され、お祭りに参加している人びとは歌い、そして踊りました。この祭りの日に燭台の炎は、エルサレム神殿全体を照らし、エルサレムの町にその光を届けました。仮庵祭の初日に、火が灯されるイベントは、古代イスラエルの荒野の旅を神が火の柱によって導いたことを思い起こさせました。イエスさまの言葉は、仮庵祭の間、もしくはその直後に語られているものです。ということは、「私は世の光である」と語ったイエスさまが意図していることは、太陽のような光ではなく、かつて神がイスラエルの人びとに与えたような光です。暗闇に包まれる世界の中でも、決して消えることなく、私たちの傍らで燃え続け、この世界を照らし続ける光であると、イエスさまは私たちに語りかけています。この世界の闇が深いものだと実感すればするほど、私たちはイエスさまが与えてくださっている光がとても小さいものだと勘違いしてしまいますが、イエスさまは「私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」と宣言されました。どんなに闇が深く思えても、私たちはイエスさまが共にいる限り闇の中ではなく、光の中を歩んでいるとイエスさまは私たちに伝えています。私たち自身は光そのものにはなれませんが、それでも、イエスさまが私たちと共に歩んでくださることを通して、私たちは光り輝くことができます。イエスさまの愛や憐れみは、私たちを通してこの世界に届いていきます。

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