聖書: ヨハネによる福音書 6:1–15、列王記 下 4:42–44、詩編 14、コリントの信徒への手紙 一 11:23–26
ヨハネは、パンと魚はひとりの少年が持っていたものだったと記しています。
けれども、イエスさま以外、誰もこの少年に期待していません。
誰もこの少年の手元にある食べ物に可能性を見出していません。
5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人たちが満足できるのでしょうか。
自分たちの手元にはほとんど何もないことを伝えるために、
アンデレは、イエスさまとの会話の中で、この少年を紹介したのでしょう。
でも、イエスさまにとって、この少年も、少年が持っていた食べ物も
決して取るに足りない、小さく、僅かな、役に立たないものではありませんでした。
最後には、どうなったのでしょうか。僅かなパンと魚によって、誰もが満足しました。
弟子たちが持ち合わせていたお金の力でもありませんでした。
人脈やその土地についての知識によるものでもありません。
この物語が大きく動くきっかけとなったのは、一人の少年の存在でした。
貧しく、力もない、希望も感じられない、社会的にとても小さな存在である、
この少年がイエスさまに差し出したものが、この少年の命だけでなく、
このように、少年の持っていた食べ物が分かち合われることによって、
この食卓は、現代に生きるわたしたちにとって、とても挑戦的なものです。
というのも、わたしたちが目を留め続け、価値を認め続けるものは、
でも、イエスさまがわたしたちを招く食卓においては、
わたしたちが目を留めないものに、イエスさまは目を留め続けます。
そして、わたしたちが取るに足りないものと考えるものを
言い換えれば、誰もが神に用いられ、神の働きに加わっているということです。
わたしたちは、役に立つか、役に立たないかといった基準で人を見つめません。
それこそ、イエスさまの望むやり方であり、イエスさまの望む交わりの作り方です。